いいとも「ウキウキ WATCHING」は20分で誕生 アン・ルイスやトータス松本らを手がけた「伊藤銀次」の音楽人生
第1回【主役より“脇”が気になった少年が切り開いた音楽の道――伊藤銀次、ビートルズとの出会いとプロへの第一歩】のつづき 【写真】77年、82年、そして現在…写真で振り返る「伊藤銀次」の音楽人生 歯科医の跡を継ぐ道を断念し、音楽で生きていくと決めた伊藤銀次(73)。自身のバンドをプロデュースしてもらうために大瀧詠一に連絡を取る。その後、世界は広がり、数々の名曲の作曲、アレンジなどを施してきた。 (全2回の第2回) ***
大瀧詠一にプロデュースを依頼
歯科大を休学し、大阪でバンド「グラス・ブレイン」の活動をしていた頃、「はっぴいえんど」の曲を聴いた。それまで日本語ロックへの違和感が拭えてなかったが、「はっぴいえんど」の曲にはそれまでに聴いたことのない新しさを感じた。 「英語で適当に歌詞を作ってるときはリズムがあるのに、日本語になった瞬間にべたついて躍動感がなくなる。ロックって日本語は合わないなと思っていたけど、『はっぴいえんど』は欧米のロックみたいなノリの日本語の音楽でした。日本語でもロックできるなと思って、コピーバンドをやめて、『グラス・ブレイン』を母体にした『ごまのはえ』というバンドで日本語のロックを作ったんです」 シングルは何とか作ったが、アルバムを作る自信はつかなかった。レコーディングの経験が少なかったことがその理由だが、そこで大瀧詠一にプロデュースを依頼することにした。 「僕らは大阪のバンドだったので、コミカルでユーモアのある音楽も作っていた大瀧さんなら僕らを理解してくれるんじゃないかなと思い込んで、お願いしたんです」 大瀧も「興味がある」と「ごまのはえ」のライブを見に来た。当時、伊藤が住むアパートに来て、夜通し音楽談義を交わした。同じ事務所に所属してからは、東京都福生市にあった大瀧の自宅から歩いて2~3分の近所に家を借り、バンドメンバー5人で共同生活を始めた。 大瀧はプロデュースのみならず、バンドの大改革にも着手。メンバーチェンジなども経て、「ごまのはえ」は新たなバンド「ココナツ・バンク」へ生まれ変わった。だがほどなくして、1973年9月21日の「はっぴいえんど」の解散コンサートにバックバンドとして出た翌日、「もう銀次にはついていけない」とバンドは解散してしまった。