3年目のウクライナ侵攻、北朝鮮派兵で「根本的に違う次元に」 松田邦紀前大使が語る支援、日本にとっての戦争の意味とは?
日本は第2次大戦の悲劇から、経済を復興させ、政治、社会文化の発展を築いてきました。今回の戦争の本質は、わが国が立つ基盤を根底から切り崩そうとする動きと言えます。ウクライナだけでなく、日本の問題でもあるのです。まずそこが出発点だと自分に言い聞かせるようにしました。その上で、日本ができること、日本がすべきこと、日本にしかできないことがあるはずだと考えました。 現場のニーズには軍事的、社会的なニーズとさまざまなものがあります。できるものからどんどんやっていく。東京との連絡調整で気をつけたことは、無駄な議論をして、結果として一番大事な時に一番必要とする物資がウクライナに届かないという愚だけは避けなければならないと考えました。侵略戦争が始まってから自分に言い聞かせ、同僚と話し、東京との議論の中で主張してきたことです。 日本に限らず全ての国が国内法にのっとってできないことがあります。日本にできない分野があるからといって決して卑下することはありません。日本は、これはできないが、これだったらできるというように緊密に情報交換することで、ウクライナ側も無理難題を言うことはありませんでした。
▽日本の経験は役に立つのか ―越冬対策や地雷除去など支援の分野は多岐にわたりました。 「侵攻1年目、ロシアによる度重なる攻撃の結果、ウクライナはきわめて厳しい冬を迎えました。あの時は出せるものは発電機であれ、変圧器であれ、補強材であれ、とにかく迅速に出しました。2023年になって、少し落ち着いて来た時には、できるところから復旧復興を進めていくことを考えました。 日本には第2次大戦から立ち上がった経験、毎年のように度重なる自然災害から立ち直ってきた経験があります。復興のための組織、原動力、それを動かすためにどのような人材が必要なのかなど、目立たない協力ではあったものの惜しみなく提供しました」 ▽別れ、そして戦争でも日常は続く ―任期を通じて印象に残っていることを教えてください。 「日本に帰ってきて、常に心に戻ってくる場面があります。2022年3月、戦闘が激化するキーウから隣国モルドバに退避した際、長蛇の車の列ができていた。深夜でした。例外なく男性が運転し、国境まで来ると女性に運転を代わり、抱き合って別れを惜しんだ後、一人また一人と暗闇に戻って行く。既に戒厳令により男性の出国制限が出ていました。多くの人が軍服を着ていたのであのまま兵役に就いたと思います。誰ひとり声を上げず、なんとも言えない、これ以上ない、生と死の境目の厳しい状況での、その中でも家族の愛を感じる胸に迫るような別れの場面でした。