「流線形」あまり意味ない? なぜ新幹線は採用し、そして鼻が長くなっていったのか
世界的ブームは戦前だった
「流線形」の車両と聞くと、初代新幹線の0系が思い浮かぶでしょう。実はこうした流線形のデザインは、1930年代の鉄道で世界的に大ブームを巻き起こしました。代表的なものとしては、国有鉄道の急行電車モハ52形や、ローカル線で活躍したガソリンカーのキハ42000形、名古屋鉄道の3400形などの電車・気動車、国有鉄道の蒸気機関車C53(一部)や電気機関車EF55、南満州鉄道の「パシナ」など、それまでのスクエアなデザインの鉄道車両とは異なる、滑らかなフォルムを取り入れました。 ひと目で「近代的」「速そう」と感じるデザインは、交通機関の速度が飛躍的に向上した1930年代を象徴するものでした。流線形デザインはどのような背景で生まれたのでしょうか。実際に速度向上に寄与する形状だったのでしょうか。 【スゲー見た目!!】流線形の鉄道車両に「ジェットエンジン」くっつけてみた(写真) 流線形デザインの源流のひとつは1920~30年代、世界各国の様々な建築、工業製品に影響を与えた「アール・デコ」と呼ばれるデザイン思想にあります。特にアメリカで直線と曲線を組み合わせた「ストリームライン」、つまり「流線形」と呼ばれる様式が盛んでした。 一方、機能面から見た流線形デザインの研究は歴史が古く、古代ギリシャのアルキメデスが流体の研究をしていたことは有名です。鉄道についても1847年、イギリスの技術者サー・ヘンリー・ベッセマーが「鉄道における空気抵抗」を発表しており、19世紀のうちに流線形デザインで空気抵抗を軽減するアイデアがいくつも登場。1900(明治33)年には実際の車両を改造した走行試験も行われました。 とはいえ、当時の速度域では空気抵抗の影響はそれほど大きくなかったため、流線形デザインの研究は一度下火になります。再び研究が盛んになったのは、アール・デコが流行した1930年代のことです。
航空機に負けるな 国鉄の焦り
鉄道車両メーカーのブリル社は1930(昭和5)年、流線形車両の模型で風洞実験を行い、通常の車両に比べ100km/h走行時に40%の出力を節約できると報告。翌年にはウェスティングハウス社も風洞実験を行い、流線形機関車が2両の客車を牽いて120km/hで走行する場合、通常の車両より32%の効率化が可能と結論付けています。 この頃、飛躍的に発展を遂げつつあった航空機でも、木材や布を使用しない全金属製のモノコックボディが主流となり、空気抵抗を意識した滑らかなデザインと、その加工・製造技術も鉄道に影響を与えました。 象徴的なのは、1930年にドイツで誕生した「麗しのツェッペリン号」です。鉛筆のように尖った車体の後部に航空機用エンジンを搭載し、プロペラ推進する車両で、本線上の走行試験で瞬間的ながら最高速度265km/hを記録しました。 突拍子もない実験の背景には、旅客機の発展を目の当たりにしたドイツ国鉄の、最高速度150km/h以上で運行しなければ対抗できないとの危機感がありました。プロペラ推進の車両はさすがに無理だったものの、ディーゼル電気動車「フリーゲンダー・ハンブルガー(空飛ぶハンブルグ人)」が開発されました。 流麗なデザインの2両編成の車両は、1933(昭和8)年にハンブルグ~ベルリン間で運行を開始し、最高営業速度160km/hを実現。流線形デザインが実用と装飾を兼ね備えると証明したことで、各地に最高速度120~150km/hで走行可能な流線形車両が誕生します。 では日本はこのブームをどのように受け止めたのでしょうか。国有鉄道を代表する車両設計者である島 秀雄は後年、『鉄道ピクトリアル』で「当時の日本の鉄道車両では流線形にしても工学的に効果は望めないし、経済性も上がらないと、最初から解っていました」と述べています。 日本の特急列車はせいぜい100km/hで、アメリカやヨーロッパの速度域とは大きな差がありました。それでも「上層部の希望でやった」として「流線形の流の字もいわば、流行の流といったところでしょうか」と振り返ります。