2003年大晦日 ボブ・サップの相手は曙ではなくマイク・タイソンのはずだった――「格闘技が紅白に勝った日」の真実
TBSに賭ける
「入管から『審査の結果が出ました』って連絡が入ったんです。それで法務局まで出向くと『こうこう、こういう理由だから、マイク・タイソン氏の入国を認めるわけにいきません。以上』ってそれで終わり。あっさりしたもんですよ」(谷川貞治) それでも、『スポーツ報知』に至っては《PPVの収益金を見込んで海外開催にする》(2003年9月2日付)とだけ書き、入国許可が下りなかった事実は報じなかった。そもそも、日本国内で開催する可能性が消えただけで、試合自体が消えたわけではない。契約を交わしているのだ。実際、谷川は次の手を打っていた。 「時差とか気候とか勘案して、ハワイでやることに決めました。正月休みで大勢の日本人もいるし、これはいけるだろうと。その日のうちに現地に連絡を取って、ホノルルに飛びました」 また、タイソンとの契約を奇貨としてボクシング界とのルートも出来た。“ホワイト・バッファロー”の異名を取る元IBF世界ヘビー級王者のフランソワ・ボタは、1999年1月16日にタイソンと試合を行っている著名なプロボクサーである。彼の代理人が「もし、本当にタイソンがK-1に上がるなら」と売り込んできたのだ。 「タイソン対ボタ」は大荒れの試合として記憶に残る。序盤はボタが優勢に試合を進めると、タイソンがボタの左腕を絞め上げるという反則行為に及び、両陣営入り乱れて大乱闘。結果はタイソンが5RKO勝ちを収めたが、怒りの収まらないボタは再戦を要求していた。そこで、谷川はボタと契約を結び、因縁の再戦をK-1のリングでやらせようと考えたのだ。 また、5階級を制した往年の世界王者、シュガー・レイ・レナードのエージェントとも接点が生じた。 11月18日に日本武道館で行う「K-1 WORLD MAX」で、K-1世界王者の魔裟斗が、レナードの刺客を迎え撃つプランが発表された。『スポーツ報知』(2003年9月27日付)は《マイク・タイソンのK-1参戦がボクシング界に影響を与えた》と書く。 「それは本当です。タイソンと契約を結んだことで、多くの関係者から売り込まれた。と言うのも、アメリカは実力があっても、試合が少なくて食えないボクサーがゴロゴロいる。パンチの打ち合いはKO必至で、試合も盛り上がるから願ったり叶ったり。何なら『K-1対ボクシング対抗戦』みたいなこともやろうと思いました」(谷川貞治) 2003年9月は、K-1にとっても谷川自身にとっても過渡期となった。9月25日には、こ れまでK-1の興行を開催・運営してきた株式会社ケイ・ワンから分離独立する形で、新イベント会社「株式会社FEG」(ファイティング&エンターテインメント・グループ)の設立を発表、代表取締役社長には谷川自身が就き、石井和義に代わって名実共にK-1のトップとなった。「全方位外交を進めていきたい」という所信表明は、タイソン参戦を見据えての発言であり、そうでなくても、タイソンと契約を結んでからのK-1は息を吹き返した感があった。 「タイソンの刺客」「チーム・タイソン参戦」と散々煽りながら、タイソンとは無縁のイベントとなった9月21日のK-1横浜アリーナ大会も、日本テレビの視聴率は20.2%、フジテレビが放映した『K-1 WORLD GP』に至っては21.6%を弾き出している。 「この好調ぶりを検証すると、タイソンの話題性とボブ・サップの人気ですかね。サップが練習をサボって芸能のスケジュールを入れまくっていることには、苦言を呈してきたけど無駄ではなかった。数字を持ってないと、テレビとは対等に交渉出来ないですから」(谷川貞治) そんな中「タイソン対サップ」の開催計画は着々と進んでいた。会場はホノルルNBCに決まり、プロモーターとの話し合いもついて、後は諸々の条件をすり合わせるだけとなった。 「大晦日をTBS一本に決めたのも、この頃でしたかね」と谷川は回想する。 「一番の理由は2年連続でやってる局を切れなかったことに尽きます。『K-1 MAX』で魔裟斗をスターに育ててもらった恩義もある。フジの清原さんからは『タイソンはウチで』って何度も何度も懇願されたけど、TBS一本に賭けたんです」 かくして、着々と計画が進みつつあった「タイソン対サップ in ハワイ」だったが、思わぬところから、ストップが入るのである。 続きは<「マイク・タイソン対ボブ・サップ」に待ったをかけた「K-1Dynamite!!」の大口スポンサー>で公開中。
細田 昌志(総合作家)