帝京で選手権連覇、大人気企業の社員からプロへ、内緒で教員試験に合格…波瀾万丈キャリアを歩んだ元Jリーガーが地元・埼玉で貫くイズム
「古沼先生のあのひと言が、私の人生を決めた」
企業の人事部が受け持つ福利厚生の一環だった日本サッカーが、プロへ移行する過渡期を経験したひとりにDF岩井厚裕がいる。日本リーグの全日空を経て、Jリーグでは横浜フリューゲルスとアビスパ福岡でプレー。引退後は地元埼玉で公立中学の教員を長らく務め、現在は公立高校に異動してひと世代上の生徒と向き合っている。 【画像】セルジオ越後、小野伸二、大久保嘉人、中村憲剛ら28名が厳選した「 Jリーグ歴代ベスト11」を一挙公開! それは東京の名門・帝京高で、もうすぐ2年生になるという3月の練習試合だった。CBの先輩が怪我でピッチの外に出た時、古沼貞雄監督から「おい、お前が行け」と、ベンチのすぐ横でボール拾いをしていた岩井が選手交代を命じられた。 「先生は僕の名前も知らなかったはずなのでびっくりしました。相手CFを見ろと指示され、負けることの許されないチームでしたから、足が血まみれになろうが止めなきゃいけないと必死に戦いました。思えば古沼先生のあのひと言が、私の人生を決めたといっても過言ではありません。先生の一番近くに座っていなかったら、出場機会など巡ってこなかったかもしれませんからね」 岩井はこれをきっかけに2年生からCBのレギュラーとなり、第62回と63回の全国高校選手権連覇に尽力。両校優勝となった63回大会では主将を務め、島原商高との決勝で同点FKを決めている。 高校時代の忘れ得ぬ出来事のひとつが、東京選抜で臨んだ3年の奈良国体だ。準々決勝で神奈川選抜に敗れたが、宿泊先の公民館で面倒を見てくれた地域の人びとが応援に駆けつけ、「負けたのにすごく褒めてもらったんです。人の温かみを感じて自然と涙がこぼれ落ち、生まれて初めて号泣しました」と懐かしむ。 複数の候補の中から、関東大学リーグ2部の東海大を選択。高校の練習が大変だったこともあり、東海大は練習も上下関係も厳しくないと帝京高の先輩、前田治から聞いた。中学の恩師に教育職員免許状の取得を勧められ、教職課程も履修していた。 東海大では1部に昇格した2年生からポジションを掴み、いきなり関東大学リーグで初優勝。4年生では順天堂大と優勝を分け合い、全日本大学選手権初制覇に貢献している。 日本リーグに所属する大手企業数社から勧誘され、教員になる前に社会人サッカーを経験したいと思い、1989年に全日空に入った。プロ契約も交わせたが、「引退後の選択肢が広がると考え、社員として入社しました」と説明。午前中に業務をこなし午後から練習したが、社業では苦労が絶えなかったそうだ。 配属先の予約センターでパソコン操作に大苦戦した。「飛行機の予約電話がきてもパソコンなど触ったこともなかったので、打ち込むのに時間がかかりました。お客様はイライラしたと思います。間違って予約を取り消してしまったこともあり、上司に何度説教されたことか知れません」と苦笑する。 日本リーグでは無冠に終わったが、1年目から主力となり3シーズンでリーグ戦60試合に出場した。 「全日空時代はサッカーも仕事も中途半端でした」。93年にJリーグが開幕することを受け、コーチだった木村文治から「プロでどうだ?」と打診される。どっちつかずではいけないと思い、熟慮を重ねた。当時の全日空は超人気企業で、「選手でいるより引退後の人生のほうがずっと長い。辞めたらもったいないぞ」という声が圧倒的だった。 一方で帝京高の恩師・古沼監督は「まだ先がある。まずサッカーで頑張ってみたらどうだ」と進言。岩井は「あの言葉が背中を押してくれました」とプロでの挑戦を決断する。