帝京で選手権連覇、大人気企業の社員からプロへ、内緒で教員試験に合格…波瀾万丈キャリアを歩んだ元Jリーガーが地元・埼玉で貫くイズム
レジェンド級の“達人たち”と渡り合ったJリーガー時代
全日空から生まれ変わった横浜フリューゲルスでプロフットボーラーの道を歩み出し、92年のJリーグナビスコカップ、翌年のJリーグ開幕という日本サッカーにとって画期的な出来事の当事者となる。 横浜Fのコーチだったズデンコ・ベルデニックが、ゾーンプレスという戦術を採用。岩井は「ズデンコから守備を学んだほか、Jリーグが誕生したことで自分はもっとうまくなれました」と語る。世界各国の名手が続々と日本にやって来たからだ。 「浦和レッズのウーベ・バインにはまったく予測できないコースにパスを通され、自分の動きを見透かされているようでした。横浜マリノスのラモン・ディアスは、はっと思った瞬間にマークを外されシュートを打たれた。ガンバ大阪のエムボマは爆発的な速さが脅威で、同僚のアマリージャと紅白戦をすると動きだしの間合いが絶妙で、いつ、どこで相手を見ているのか不思議でした」 30年前を回顧しながら、岩井はこう付け加えた。「達人とやり合ったおかげでさらに上達し、より考えながらプレーするようになりました。自らの成長を実感できたんですよ」。 横浜Fで3年間レギュラーとして活躍し、96年にJリーグ昇格を果たしたアビスパ福岡へ移籍。声をかけてくれたゼネラルマネジャーの泉信一郎は、横浜Fを運営する全日空スポーツの元社長でもあった。 1年目から主将に指名され、清水秀彦監督の信任を得た。パチャメ監督と馬が合わなかった2年目は出場数が減ったが、森孝慈監督になった3年目は再度主将として奮闘する。 福岡は97、98年の総合成績で最下位となってJ1参入決定戦に回った。1回戦を勝ち抜いたが2回戦で敗れ、最終1枠の第3参入決定戦でコンサドーレ札幌に連勝し、薄氷を踏む思いで残留を果たした。岩井はこれを置き土産に引退を決意する。 98年というのは因縁めいていた。現役を退いた年に横浜Fが消滅。運営母体のひとつだった佐藤工業が経営から撤退したことで、横浜Mに吸収合併されたのだ。 ことが公になった後の11月7日、第2ステージ第16節が横浜Fのホーム最終戦。福岡で3年目の岩井は慣れ親しんだ三ツ沢球技場で古巣と戦った。「まず驚き、次にまさか嘘だろと思いました。お世話になったクラブがなくなるのですから、衝撃でした」と述懐し、表情を曇らせた。