授業は1カ月以上行われず逮捕者も…名門「麻布」の礎ともなる「麻布学園紛争」の記録がよみがえる
星野:麻布紛争から15年たって、当時の先生はまだいらっしゃった時期なので、麻布紛争を風化させないようにと配布してくださったのでしょう。 おおた:今回、『幕間のパントマイム』をなぜ復刻されたのでしょうか。 星野:麻布には二つの大きな事件がありました。1970年3月の自主活動の自由と授業改革をめざす全校集会と、1971年11月の校長代行が辞任した全校集会です。この19カ月あまりの期間の資料が、他の多くの資料とともに学園資料室に残されています。学校の授業に活用されている例もあると聞き、いまでもさまざまな興味を示す方がいるはずと確信し、復刻版の刊行にいたりました。私たちが高齢者になり、若い人に麻布紛争を伝えたいという思いもあります。 ■機動隊導入、生徒数人が逮捕され少年鑑別所へ ◆おおた:麻布紛争――なかでも『幕間のパントマイム』で描かれた71年校長代行退陣――は、なぜ起こったのでしょうか。 星野:さまざまな要因はありますが、「山内校長代行はいやだ」と反発したことが大きい。1970年3月の全校集会の合意を実現するという意味ではなく、校長代行を追い出せるならば、追い出したい、という思いが強かった。 おおた:校長代行は1970年4月に就任し、始業式で早速、「直前の3学期に全校集会で決まったことを白紙に戻す」「構内での政治活動、集会は一切認めない」「問題を起こした生徒は即時退学、生徒が暴力を行使する際には警官隊を導入する」などと発言します。 星野:校長代行は竹刀を持って校内を巡回したり、授業に乱入して生徒を「指導」したりすることもありました。全校集会の合意を校長の力でひっくり返したことだけでなく、ひどく高圧的な支配でこわかったですね。 久保:71年6月17日、沖縄返還協定調印阻止闘争で私を含めて3人が逮捕され、無期停学処分となります。校内の活動も自由にできず、校長代行にやられっぱなしでした。退学処分で転校を余儀なくされた者もいます。 おおた:1971年2学期になると、生徒側の反発は激しくなります。10月3日、文化祭でヘルメットをかぶった生徒十数人が学校に突入し、校長代行は機動隊を導入して排除します。このとき生徒1人を捕まえ、のちに4人を逮捕し少年鑑別所に送致しています。7日、学校はロックアウトします。このときも正門前で警官隊ともみあった生徒2人が逮捕されます。学校は休校状態となり、授業はできなくなりました。