【名馬列伝】異国の地で星になった「砂の女王」。交流重賞の黎明期を彩った“一等星”ホクトベガの激闘譜
「ダート最強馬」として臨んだ現役最終レースで悲劇が…
このあと再び芝路線に戻ったホクトベガだが、勝利を挙げることはできずに5連敗。1996年、7歳になった彼女は本格的にダート戦線へ向かい、ファンや関係者を震撼させる圧倒的な力を見せる。 年始の川崎記念を1秒0差で勝つと、雪のなかで行なわれたフェブラリーステークス(当時GⅡ)も馬なりで0秒6差を付けて快勝。続いて、ダイオライト記念(0秒5差)、群馬記念(0秒5差)、帝王賞(0秒4差)、エンプレス記念(1秒5差)、南部杯(1秒3差)と7連勝をすべてほとんど追ったところなく圧勝という恐るべき快進撃を続け、「ダートに敵なし」を印象付けた。 11月に再び芝のエリザベス女王杯を4着としたあと、浦和記念を快勝。有馬記念で9着として7歳のシーズンを終えたホクトベガは、新しいステージへと駒を進めることになる。1996年に設立されたドバイワールドカップからの招待を受け、初の海外遠征に臨むとともに、このレースを最後に現役から引退することを発表したのである。日本の「ダート最強馬」はどこまで通用するのかと、日本中の競馬ファンがこの知らせに胸を躍らせた。 壮行レースの川崎記念を快勝し、中東へ旅立ったホクトベガだが、ドバイへ到着してからなかなか疲労が抜けず、また裂蹄を起こして順調な調教が積めなかった。加えて、ドバイは滅多に見られないほどの豪雨に見舞われてダートコースの砂が流れ出すトラブルが起こって開催が順延。当初の3月29日から4月3日へスライドしての開催となった。 復調気配を示して、どうにか出走に漕ぎ付けたホクトベガは中団の後ろ目でレースを進め、馬群に包まれながら最終コーナーを回ろうとしていた。しかしそのとき、突如バランスを崩して転倒。そのまま彼女は二度と立ち上がることはなかった。 診断は左前脚の複雑骨折で予後不良。検疫の問題からホクトベガの亡骸は日本へ運ぶことができず、たてがみのみが持ち帰られ、生まれ故郷の酒井牧場(北海道・浦河町)の墓に収められた。 芝のGⅠ馬でありながら、交流重賞の黎明期に果敢な挑戦をきっかけにダート界を席巻した名牝ホクトベガ。悲劇的な最期を遂げたが、織女星の名を冠した彼女の輝きは、いまも色褪せることはない。 文●三好達彦