【名馬列伝】異国の地で星になった「砂の女王」。交流重賞の黎明期を彩った“一等星”ホクトベガの激闘譜
一時は障害レースに転向プランも、ダートに活路
その後、1994年の札幌記念(GⅢ)にこそ勝ったものの、GⅠとなると牝馬ということもあり、厚い壁に跳ね返され続けていた。 その打開策として障害転向を模索し、練習に励んだこともあった。しかし、斤量が軽い(56㎏)の1995年のアメリカJCC(GⅡ)で”あわや”のシーンを作って天皇賞馬サクラチトセオーの2着に食い込んだことから、障害入りのプランは白紙となった。 しかし、同年の安田記念(GⅠ)で終いにいい脚を使いながらも5着に敗れたことから、調教師の中野隆良はまた別の進路を探ることになる。ダートがその舞台である。 ホクトベガは1994年、一度だけダート戦を使われたことがあった。平安ステークス(GⅢ)で1秒5差の10着に大敗していたが、中野は血統的に彼女がダートを走れないわけがないと捉えており、チャンスがあれば再びダートを走らせてみたいという意向を持っていた。 時もとき、『開放元年』と呼ばれる1995年から、中央と地方の交流がスタートし、中央の重賞に地方所属馬の参戦が認められると同時に、地方のダート重賞が中央所属馬に開放され始めていた。 中野が「中央のGⅠ馬を連れて行くのだから、恥ずかしいレースはできない」という重圧を感じるなか、地方・川崎の牝馬限定重賞、エンプレス盃(ダート2000m)への出走に踏み切る。そしてこの決断が、ホクトベガの運命を決定的に変えることになる。 1995年6月、強く降り続いた雨でドシャドシャの不良馬場となったこの一戦。レースの中盤で、向正面で2番手から先頭へ上がったホクトベガは”馬なり”であるにもかかわらず、あとは後続を引き離す一方となり、ゴールでは2着に3秒6、推定で18馬身差もの大差を付けて歴史的な圧勝を遂げていたのだ。 駆けつけたファンの熱狂を他所に、本年の春から手綱をとっていた横山典弘はレース後、「勝ててホッとしている」とコメントし、”背水”の思いでここに臨んだ中野と同様の心情を持っていたことを覗かせていた。