100万人に一人の難病抱えた若者がサッカーに懸けた想い。Jクラブ下部組織、日大藤沢で手にした“生きる喜び”
いつまでもボールを蹴られると思っていた。もっと言えば、当たり前の生活が続くと思っていた。そもそも、その当たり前がなんなのかわかっていなかったのかもしれない。朝起きて、ご飯を食べて、学校に行く。気の置けない仲間と教室で過ごし、放課後は大好きなサッカーに打ち込む。なんの不自由もない暮らし。そこには当たり前の幸せがあった。しかし、人生はわからない。17歳という若さで骨の癌である骨肉腫を右肩に発症し、人生は一変した。柴田晋太朗、24歳。100万人に一人という難病を抱えた若者は“生きる喜び”を噛み締めながら、今を懸命に生きている。 (インタビュー・構成・撮影=松尾祐希)
好奇心旺盛な幼少期。Jクラブの育成組織でキャリアをスタート
今から24年前。柴田晋太朗は神奈川県の鎌倉市で生を享けた。1歳になる前からボールに興味を持ち、室内でサッカーに興じていたという。好奇心旺盛だった晋太朗は小学校に入学すると、サッカー以外のことにもチャレンジした。 「最初は湘南ベルマーレのスクールや個人レッスン、(サッカースクールの)クーバーなどに通っていました。他の習い事もやっていて、水泳、空手、習字もやりました。そこから小3に上がるタイミングでF・マリノスのセレクションを受けたんです」 小学2年生まではスポーツから文化系の習い事まで幅広くトライし、3年生から本格的にサッカーを始めた。選んだクラブは横浜F・マリノスプライマリー。同級生にはMF山田康太(現・ガンバ大阪)がおり、一つ上には今でも親交があるGK早川友基(現・鹿島アントラーズ)、DF常本佳吾(現・セルヴェットFC/スイス)が所属。プロサッカー選手を目指し、Jクラブの育成組織でキャリアをスタートさせた。 チームメイトたちはいわゆるエリート。世代のトップを走る選手たちに囲まれ、晋太朗は笑顔を絶やさずにボールを蹴った。しかし、壁は厚い。簡単に主役になれるほど甘い世界ではなかった。 「たまに飛び級で上の世代のチームに参加させてもらったりはあったんですけど、レギュラーをガッチリつかんでいたわけではなかった。トレセンにも選ばれていなくて、僕が受けるレベルに達していなくて行かせてもらえなかった。試合に出ている時と出ていない時の波がかなりあって、6年生になっても絶対的な存在ではなかったんです」 卒業後は街クラブでプレーすることを考えたのも自然の流れ。当時は身体が小さく、自分の武器を100%発揮できなかったからだ。 「周りの選手がうまかったし、自分よりも優れているというのは感じていた。ジュニアユース昇格の声がかからなかったのは、身長が小さかったことも影響していたかもしれない。技術では負けない自信があったけど、スピードや身体の強さでは勝てなかったので。自分の技術を発揮できないもどかしさはあった」