100万人に一人の難病抱えた若者がサッカーに懸けた想い。Jクラブ下部組織、日大藤沢で手にした“生きる喜び”
飛躍の年になることを信じて疑わなかったが…
なぜ、前向きな状態でプレーできるようになったのか。それは自分が置かれた立場が変わったからだという。 「言い方は難しいけど、F・マリノスのレベルが高かった。なので、(中学時代は)自分が引っ張る立場になったので、逆にそれが良かったのかなと。自分が活躍できる環境で苦労を重ねた結果、自信がついたんです。ジュニアユースに上がれず、自分としては下に落ちてしまったイメージがあった。この3年間で活躍をしないと、プロサッカー選手になれないと思っていました。3年間でアピールをしてJクラブの育成組織や強豪校から声がかからなかったらプロにはなれないなと。そういう意味では追い込まれていたので、本当に死に物狂いで3年間を過ごしたんです」 その結果、次の進路を決める際には多くの選択肢を持つことができた。2種年代最高峰の高円宮杯 JFA U-18サッカープレミアリーグで戦うJユースや、選手権で優勝を目指せるような高体連の強豪校からオファーが届き、その中から選んだのは日大藤沢高校だった。 「長い間進路を保留にするぐらい、ずっと悩んでいた。でも、家族の側で日本一とプロサッカー選手を目指すことを考えて日大藤沢を選んだんです。学校の成績も良かったので、文武両道でどっちにも打ち込める。サッカーの環境も良くて、人工芝グラウンドもあったので」 入学すると、早い段階からトップチームで活動する機会を得た。トレーニングは神奈川県リーグ1部で戦う先輩たちと共に行い、週末はBチームの一員として県リーグ2部のゲームに出場。全国大会のメンバーには選ばれなかったが、1年生の頃から同世代の仲間たちよりも一歩先を歩いて研鑽を積んだ。 そして、迎えた2年目。飛躍の年になることを信じて疑わなかったが、少しずつ身体の不調が見られるようになっていた。 「6月ぐらいから重さを感じるようになったんです。痛みとかはなかったんですけど、肩の上に重石がのっているような感じ。何か持ち上げようとしてもできないみたいな。プレーでも徐々に気になるようになってきて、疲労も抜けにくくなっていた。だるさみたいなのがあって。食欲とかは別に落ちていないように思ったんですけど……。でも、親に後から聞いたら、体重はずっと落ちていたみたいです」