100万人に一人の難病抱えた若者がサッカーに懸けた想い。Jクラブ下部組織、日大藤沢で手にした“生きる喜び”
親の心配をよそに「そんなに深刻になる必要あるのかなと」
騙し騙しやっていた中で晋太朗の身体はついに限界を迎えた。17歳以下の神奈川県選抜に選出され、2016年の8月に行われた韓国遠征の時だった。 「相手選手と接触したら、信じられないぐらいの痛みが襲ってきた。息ができないぐらいで、これは無理だなと……。プレーに集中できない。日本に戻ったらまず病院に行こうと初めて思ったんです」 もともと晋太朗は痛みに強く、簡単には音を上げないタイプだった。「好きじゃない」という病院も滅多に行かない。そんな男が初めて自ら足を運ぼうと思うほど、強烈な痛みと戦っていた。 9月の上旬。地元でお世話になっている整形外科に向かった。 「レントゲンを撮影したんですけど、骨肉腫は見分けにくいんです。ただ、たまたま院長先生が肩に異変を見つけて、『ちょっと骨端線が開いているから病院に行ってみたら?』と言ってくれたんです」 紹介状を書いてもらい、東海大学の大学病院でMRIを撮った。そして、その検査結果を再度地元の病院に持っていき、今の状況を告げられた。 「腫瘍がある、一刻も争う病気だ」 ただ、晋太朗は深刻に捉えていなかったという。主治医に切羽詰まった言葉で伝えられても、重く受け止めていなかった。 「そんなに深刻になる必要あるのかなと。腫瘍があるぐらいにしか思っていなくて、親にもなんか肩にできたから明日もう1回病院に行くと伝えたぐらいで。でも、親は『え?』ってなって、『明日私が一人で病院に行く』って言い始めて。翌日に病院に行って、先生と話したんです。おそらく先生も詳しい話を僕にできなかったと思うんですけど、そこから親が慌てていろんな病院を回ったんです」 親の心配をよそに晋太朗は骨肉腫という認識を持っていなかったため、一緒に病院に向かっている最中も楽観視をしていた。自分で腫瘍について調べることもなかったという。 その中で受け入れ先が見つかり、父親の知人の伝手もあってがん研有明病院に向かうことに。2010年に右大腿骨に骨肉腫が見つかった当時大宮アルディージャ所属の塚本泰史氏を治療した主治医が担当となった。 一から検査をし、自分の身体に何が起こっているかは理解できた。それでも、晋太朗の心境は変わらなかったという。 「ただ、骨肉腫ということを告げられて、ようやく癌であることを認識した。でも、気持ち的にはまったく慌てていなかった」 人生の帰路に立たされたが、晋太朗は動じなかった。目の前の敵と戦うだけ。サッカーと同じように全力で相手を倒しにいくという気持ちで、病魔に立ち向かった。 <了>
インタビュー・構成=松尾祐希