小6長男に叫びながら続けた心臓マッサージ「戻ってきて」…事故で亡くした母の“命の講演会”
■快復への希望…襲ってくる不安… また私の周りの多くの人たちが心を込めて折ってくれた千羽鶴は、いつしか一万羽を超えて病室中に飾り付けられました。そうやって目を覚まそうとしない貴弘との時間が2か月、3か月、4か月と経っていきました。そしていつしか年が明け、2002年から2003年へと変わりました。 貴弘の状態は決して安定した状態ばかりではありませんでした。何度も何度も死の淵に立たされ、突然心臓が止まってしまって、電気ショックによってどうにか戻ってくるということもありました。また、体の血液が足りなくなってしまい、輸血も何回もしました。こういったことを繰り返すうち、私たちがどれだけ強い希望を持っていたとしても、もしかしたら貴弘は私の元から離れていってしまうのではないかという不安もいつも心のどこかに持っていました。 そんなある日、私は、友人からある新聞記事のことを教えてもらいました。それには小学校1年生の時に交通事故に遭って、ほぼ脳死状態になった男の子が人工呼吸器をつけながら生き続けて、今年二十歳を迎えたという事が書いてあるのです。 とっても驚きました。そしてその記事に書かれている人を探し出して、ここ石川県に住んでいるということを突き止めたのです。そして私は、その子のお母さんと電話で話をすることができました。くじけそうな心のうちを泣きながら一生懸命話しました。そうするとそのお母さんは「まだ4か月しか経っていないんだから絶対に諦めないで」と私を励ましてくれました。そして、「中学校はどうするの?行けなくても、学校の先生に来てもらうことはできるんだから、諦めないで。先生にもお願いしてみたら?」とそういうことも教えてくださいました。 その言葉を聞いてくじけそうだった私の心に一筋の希望と光が見えるようなそんな気がしました。 ■病室で迎えた誕生日 そして2003年の2月、貴弘の12回目の誕生日がやってきました。その頃の貴弘の容態というのは以前と比べると比較的安定していました。それまでのとても不安定だった状態に比べると、その頃は穏やかで毎日眠っているような日々が続いていたのです。そして誕生日にはケーキを買ってきて、病室で家族4人、ささやかな誕生日のお祝いをしました。小学校の担任の先生が病室に来てくれて「貴弘くん、中学校に行ったらこれを使ってね」といって、英語の辞書をプレゼントしてくれました。とにかく生きていてくれさえすればいい。私は絶対に諦めないでこれからも貴弘と一緒に生きていこうと思えた日でした。