死刑執行された下士官の姿を探して「これは忠邦さんに間違いない」泣き崩れた94歳~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#72
戦争体験の「語り部」
成迫忠邦の故郷、木立は、海沿いのエリアからは15分ほど山に向かって車を走らせたところだった。武田さんの自宅は、緑に囲まれていた。 1929年生まれの武田さんは、終戦時16歳。ご自宅には武田さんが描いたという油絵がたくさん飾られていた。こども時代の佐伯は、海軍景気で沸いていた。佐伯湾に停泊する軍艦を見に行って、戦艦の名前をおぼえたという。1941年には戦艦や航空母艦、巡洋艦など数十隻で構成された艦隊も山頂から見ていた。真珠湾攻撃の直前だったという。 6歳年上の兄はサイパンで戦死。空襲で遺体を目の当たりにしたり、機銃掃射で吹き飛ばされたりした。そうした体験を地元の小中学校で話していたそうだ。 〈写真:武田剛さん〉
忠邦さんの写真じゃよ
まず、「スガモの父」、田嶋隆純教誨師の遺品にあった、白い海軍制服姿の青年の写真をおみせした。武田さんはじっと見ていたが、確信を得られないようで、何も言わなかった。次に、横浜裁判で判決を受ける青年の写真を見てもらった。こちらはアメリカの国立公文書館が所蔵しているものだ。武田さんはこの写真もしばらく凝視していたが、写真を手にしたまま、すっと立ち上がると、戦死した兄や妻らの遺影が並ぶ仏壇のほうに移動した。そして、「忠邦さんの写真じゃよ」と言って、嗚咽を漏らした。 考えてみれば、この判決を受ける青年が成迫忠邦であるとすれば、宣告されている判決は「死刑」ということになる。武田さんは写真の人物が成迫であると認識した瞬間に、気持ちがこみ上げたようだった。しばらくして、武田さんはもとのイスに戻られたが、「これは忠邦さん、間違いない」とつぶやくように言った。 〈写真:武田さんが描いた絵〉
パインの缶詰とクワガタの思い出
武田さんには、小学生のころ、中学生の兄に連れられて成迫家を訪ね、当時はめったに口にできなかったパイナップルの缶詰を御馳走になり、さらに空き缶一杯に成迫がクワガタを捕って詰めてくれたという思い出があった。 そして、成迫が死刑判決を受けたあと再審でも死刑となり、当時村長だった武田さんの父がその知らせを成迫家に伝える役目となっていた。父がふすま越しに泣いていたのを武田さんは聞いていた。実はそのあと、武田さんの父は急死してしまったのである。 (「成迫忠邦さんの思い出」武田剛)「佐伯史談210号」(2009年7月) 「お父さんが倒れた。早くこれに乗って帰れ!!」と言う。自転車に飛び乗って帰ったら、父は忠邦さんの家に行く途中、我が家から1キロ程の所で倒れ、戸板に乗せられていて、その場で医師の治療を受けていた。狭心症だと言う。 武田さんの父は、役場の職員に成迫家への伝達を遺言して、翌日息を引き取った。1949年3月9日のことだ。56歳だった。内ポケットに入れられていた成迫の「再審も死刑」の知らせは、葬儀が終わってから職員によって成迫家に届けられた。 〈写真:仏壇の前でむせび泣く武田さん〉