夫の置き土産に感謝 福知山脱線で夫亡くした妻の想い
JR福知山線脱線事故で夫を亡くした原口佳代さんが10年の想い語る THEPAGE大阪
いつもと変わらない朝だった。いつものように「行って来ます」「行ってらっしゃい」とやり取りをして見送った。まさか、それが最後の言葉になるなんて。JR福知山線脱線事故から25日で丸10年を迎える。この事故で夫の浩志さんと突然の別れを強いられた兵庫県宝塚市在住のピアノ講師の原口佳代さん(55)は、今でも最後のやり取りを思い出す。事故直後からずっと、母親の淳子さんが支えてくれたが3年後に他界。絶望の淵にいた自分を助けてくれたのは、周囲の仲間たちだった。あれから10年。佳代さんは、自分と同じように突然家族や愛する人を亡くした人たちを支えようと、音大の仲間らとともに音楽グループ「虹色の音」を立ち上げ理事長に就任し、精力的に活動を行っている。常に前を向いて生きようと奮闘する佳代さんの思いを聞いてみた。
事故に巻き込まれたかも
2005年4月25日。会社員の浩志さんはいつもと同じように会社へと出かけていった。浩志さんはお弁当を手にいつも通りに「いってきまーす」と言って出かける。そして佳代さんも「行ってらっしゃい」と見送る。「いつも自転車で駅まで行って、雨の日は私が車で送ったりしてて。あの時は、本当にいつも通り平穏な一日の始まりでした」 同日午前、突然、淳子さんから電話があり「すぐにテレビをつけなさい」と言われた。 すると「JR福知山線で脱線事故が起きた」というニュースが放送されていた。浩志さんが使う路線。時間的にも乗っている可能性があった。すぐに電話をかけるも、ずっと「つながりません」という音声が続いていた。 「携帯電話の電源切ってんのかな?」と考えるも何をすればいいのかわからなかった。連絡がとれないまま、昼から予定していた音楽講師の仕事のため宝塚市へ向かう。生徒と事故の話をして「夫が巻き込まれてるかもしれない」と言うと、生徒らは「先生、早く帰って」と言ってくれた。 けど、夫の携帯はつながらないまま。「どうすればよいかわからないから」とレッスンを始めようとした瞬間、夫が勤める会社から連絡が何度も入った。レッスンへ向かう途中、車のラジオで緊急対策本部の連絡先は控えていた。そこで病院の連絡先を7~8つ分聞いて電話をしたが、浩志さんの名前はなかった。