パリ五輪まであと5カ月―「グローバル化」で復活を期す日本の団体球技
日本サッカーを改革したドイツ人、クラマー氏
日本代表に外国人指導者を採用した先駆けはサッカーだろう。90年代以降をみても、以下のような外国人監督が代表チームを率いている。 ・ハンス・オフト(オランダ)1992~93年 ・ロベルト・ファルカン(ブラジル)1994年 ・フィリップ・トルシエ(フランス)1998~2002年 ・ジーコ(ブラジル)2002~06年 ・イビチャ・オシム(ボスニア・ヘルツェゴビナ)2006~07年 ・アルベルト・ザッケローニ(イタリア)2010~14年 ・ハビエル・アギーレ(メキシコ)2014~15年 ・バヒド・ハリルホジッチ(ボスニア・ヘルツェゴビナ)2015~18年 今から60年以上も前にさかのぼれば、「日本サッカーの父」と呼ばれるドイツ人、デットマール・クラマー氏の存在が特筆される。代表監督ではなかったが、日本サッカー界初の外国人コーチとして1960年に来日した。 その頃、日本代表は国際試合に勝てない時期が続いていた。日本サッカー協会が、西ドイツ(当時)協会に優秀なコーチの派遣を依頼し、白羽の矢が立ったのがクラマー氏だった。母国ではデュイスブルクなどでスポーツシューレ(スポーツ学校)の主任コーチを務めていた。 来日すると、日本代表と同じ旅館に泊まり込み、グラウンドでは代表選手に基本的なボールの蹴り方から教えた。まだ日本には芝生のサッカー場などほとんどなかった時代の話である。しかし、クラマー氏はドイツ流の理論的指導で日本サッカーを飛躍させた。当時、通訳を務めた岡野俊一郎氏(のちの日本協会会長)はこう振り返っている。 「クラマーさんは日本にコーチ学をもたらしてくれた。それまで日本のサッカーが経験したことのない理論的な教え方を、身をもって示し、日本サッカーの基礎をつくり、軌道に乗せ、将来への明るい希望を与えてくれた」 (『デットマール・クラマー 日本サッカー改革論』(中条一雄著、ベースボール・マガジン社) 64年東京五輪で日本はアルゼンチンを破るなどして8強進出。クラマー氏は67年から国際サッカー連盟(FIFA)公認のコーチとなり、世界各国の指導に当たったが、彼の教えを受けた日本の選手たちは、68年メキシコ五輪で初の表彰台となる銅メダルを獲得した。 スポーツ界全体にもたらした影響も大きい。その功績の一つが「日本リーグ」の創設だ。クラマー氏が来日した頃、日本国内の大会は勝ち抜きのトーナメント戦が主流だった。アマチュアの選手は長期間、職場を離れることができない。トーナメントなら各地を転戦する必要もなく、大会は数日間で終わる。しかし、クラマー氏は改革の必要性を感じていた。 負けて終わりではなく、強い相手と何度も対戦することによってレベルが上がる。そのためにはトーナメントではなく、全国的なリーグ戦が欠かせないと主張した。 東京五輪の閉会式翌日、サッカー関係者が集まったパーティーの席上で、クラマー氏は日本サッカーへの提案を披露した。 「日本の選手、そしてチームの戦力を高めるためには、ヨーロッパの各国が行っているような、リーグ戦の方法をとることが、どうしても必要です。日本では全国を四つに分けて、最強チームを12チームずつ集めたリーグ戦を形成することが必要です」 (『デットマール・クラマー 日本サッカー改革論』) クラマー氏の提案に従って65年には日本サッカーリーグ(JSL)が創設され、その動きに刺激されて他の競技も「日本リーグ」を次々とスタートさせた。高度経済成長期、企業も自社の宣伝につながるスポーツ部の強化に力を入れ、国内リーグの活性化が日本代表の強化にも重要な役割を果たすことになった。