深夜の東京に現れる南国野菜の移動販売車はどこから? 東南アジア人夫婦が日本で農園を営むまで
2人が日本に来たのはいずれも30年以上前になる。シーサアットさんはラオス南部サバナケットの出身だ。ラオスでは1950年代~1970年代の長い間内戦が続いており、多くの人が社会主義政権の圧政を恐れて国外に逃れていた。 まだ幼い子どもを育てていたシーサアットさんは、武力衝突も起こる中では安心して暮らせないと考え、命がけでメコン川を渡って隣国のタイに逃れた。その後目指したのは、母国で放映されていたドラマを見て文化的にも親しみやすい国のイメージがあった日本。タイの難民キャンプでは日本語を懸命に学び、1985年に難民として来日した。難民を支援する神奈川県の施設で日本語や日本の文化を学んだ後、ラオス人の知り合いが住む茨城県に。県内の介護施設などで学んだ日本語を生かして働いていた。 サタポンさんはタイ中部ウタイターニー生まれ。タイを出たのは「外国なら稼げると思った」から。同じように日本のドラマを見て優しい国民性のイメージに引かれ、1992年に東京都内に移り住み、建設業などの出稼ぎ労働に従事してきた。
2003年、サタポンさんは在日タイ人が集まる千葉県野田市の飲食店を訪れ、店の従業員だったシーサアットさんの姪と知り合った。サタポンさんの誠実で優しい性格を気に入った姪が、シングルマザーだったシーサアットさんに紹介。タイとラオスは言葉が似ている。食などの文化的にも近い。2人はお互いを助け合う友人として絆を深め、1年後に結婚した。 茨城県で一緒に暮らすようになった頃、サタポンさんは趣味でタイ野菜を育てていた建築業の同僚のタイ人を手伝うように。初めは自分たちが食べる分を育てる家庭菜園だった。日本ではなかなか新鮮なタイ野菜を手に入れることができなかったこともあり、在日タイ人コミュニティーの間で徐々に評判を呼び、友人のつてで坂東市で畑を借りて、2010年に農園を開いた。 ▽深夜に仕事が終わる同胞のために サタポンさんはタイで実家の稲作を手伝うなど農作業の経験は多少あったが、異国での農業は苦労の連続だった。気候風土の違いや害虫に悩まされた。種から芽が出ず、芽が出ても枯れてしまうこともあった。「慣れない土地で野菜を育てるのは簡単ではなかった」と振り返る。