貧しさと戦う少年は大金を稼ぐ世界チャンピオンを夢見た――井上尚弥戦の36年前、「東京ドームで初めて勝ったボクサー」吉野弘幸の壮絶人生
■叶わなかった40歳での現役復帰 2004年8月13日、37歳の誕生日を迎えた吉野はJBCルールによるライセンス失効のためリングに上がることはできなくなった。それと同時に現在のジム「H's STYLE BOXING GYM(エイチズスタイルボクシングジム)」をオープン。ただし現役続行は諦めていなかった。元王者や世界挑戦経験者、世界ランカーであれば健康診断の結果に異常がない場合は、最後の試合から5年以内に申請すればライセンス再交付を受けられるというルールがあったからだ。 「37歳でライセンス失効したときは『とにかく気持ちがまた燃え上がるのを待とう』と。プロ加盟せずフィットネス目的のジムを出して生活を安定させてから復帰しようと考えた。それで3年過ぎて40歳になった頃、JBCで審査してもらうことにした。何日かして、『ルールが5年以内から3年以内に変更されたので、復帰は認められません』と書かれたFAXが1枚送られてきた。『何か別の形でボクシング界に貢献してください』みたいなことが書かれていてね。 まだ戦いたいのにリングには上がれない。かといってまた他の格闘技に転向するわけにもいかない(吉野は96年末に東洋太平洋ウェルター級王者から陥落後、一度引退し1試合だけK-1に出場。その後、ライセンスが再発行されボクシング界に復帰)。そうこう悩んでいる間に、実戦練習はしていなかったのに右目の視界が狭く感じられるようになり、病院で検査を受けたら『網膜剥離です』と言われてしまってね......」 右目の網膜剥離は手術を受けて治すことができた。しかし、2002年10月の試合で右目が「眼球麻痺」になったとき、治療には時間がかかりそうだったため、手術せず現役を続行した。その影響で距離感のズレはよりひどくなっていた。それでも、ライセンス失効後も現役復帰を模索していたが、ほかにも身体のいたるところに治療が必要な箇所が出てきた。気持ちも燃え上がらない中、現実的に現役復帰は厳しいことを受け入れざるを得なかった。 17歳でデビュー以来、プロボクサーとして倒し倒されという試合を20年間、51回も繰り返した代償は、肉体的にはあまりに大きかった。吉野はそれでも、あらゆる犠牲を払い続けてきたことになんら後悔はないと言い切る。 「ボロボロになってもいいんだよ、それが俺の人生、俺の姿なんだからさ。60、70歳になってもやりたい。そういう気持ちもある。(リングは)生きざまを見せられる場所。それって、普通に生活していたらできないこと。言葉は悪いけど、『プロボクサーとしてならば、リングで死んでもいい』という気持ちで戦ってきたから」