満州国からの引き揚げで孤児になりかけた「令嬢」が日本に3人しかいない「シェイクスピア」全戯曲の翻訳者になった理由
御年82歳ながら現場の最前線で活躍し続ける翻訳家の松岡和子さん。徹底した仕事ぶりに魅了される共演者も多く、俳優の阿部寛さんもその一人だという。 松岡さんの半生をつづった評伝『逃げても、逃げてもシェイクスピア 翻訳家・松岡和子の仕事』(草生亜紀子著、新潮社刊)では、壮絶な経験が明かされている。松岡さんは満州で政府高官の娘として誕生するも、敗戦後は父が11年もソ連に抑留され、母子で引き揚げする際は残留孤児になりかけたという。 日本に戻り結婚してからも、仕事や子育て、親の介護などで多くの困難に直面するが、シェイクスピアに魅了され、ついにその全戯曲37作の完訳を成し遂げる。 この松岡さんに迫る一冊を、作家の松井今朝子さんがレビューした。 (本文・松井今朝子) ***
シェイクスピア全戯曲の翻訳は「坪内逍遥」以来3人だけ
『ロミオとジュリエット』や『ハムレット』でポピュラーなシェイクスピア劇は全部で37作品。それらをすべて翻訳したのは明治の文豪、坪内逍遥以来、日本にたった3人しかいない。本書はそのうちの1人、松岡和子の評伝である。現在活躍中の人物を取りあげたのは、評伝として珍しいケースではなかろうか。 松岡和子の名前を私が初めて知ったのは1982年、渋谷の劇場で「クラウド9」という翻訳劇を観た時のことだ。衝撃的なドラマだったため、ふだんは気に留めない翻訳者の名前にまで目が吸い寄せられたのだった。 当時LGBTQの総称は勿論ないし、「おっさんずラブ」がTVで大ヒットするなんて夢にも想わず、ジェンダーの意味すらほとんど誰も知らなかった。そんな昭和の時代に初演された「クラウド9」は19世紀の大英帝国植民地と、1970年代のロンドンを舞台にした、ホモあり、レズあり、小児性愛(ペドフィリア)あり、W不倫あり、乱交パーティありといった破天荒な家庭劇だ。しかも男優が大英帝国時代の貞淑な妻や現代のおてんばな少女の役を演じ、女優がホモに導かれる少年の役に扮するなど、いわばジェンダーレスを目に見えるかたちで追究した極めて刺激的な舞台だったのである。 本書によると『クラウド9』は「和子が長い翻訳家人生の中で唯一、自分から訳したいと手を挙げるほど惚れ込んだ作品」だったそうだから、彼女は期せずして日本におけるジェンダーレスの旗振り役を自ら買って出た女性ということになる。私は専らそのことに興味を持って、本書で彼女の人生を辿ってみた。