ゴジラと戦った異形の戦闘機「震電」プロペラ後ろ向きの外観どんな意味が? じつは実機あります
異形の前翼機、じつは世界中で研究
ゴジラ映画の最新作『ゴジラ-1.0』には、旧日本海軍が開発した試作機「震電」が登場し、スクリーンの中を縦横無尽に飛び回ります。 【現存唯一!】これが現代に残る「震電」です(写真) 同機は、海軍機とはいえ、空母(航空母艦)からの発着は想定していません。あくまでも陸上の飛行場で運用することが前提の局地戦闘機と呼ばれるものです。「局地」とは、限定されたエリアの中で用いるという意味の海軍用語で、すなわち同機は迎撃用の戦闘機として開発されました。 とはいえ、その姿はかなり特徴的で、機体後部にエンジンとプロペラがついています。このように、エンジンが後部についている機体は推進式またはプッシャー式などと呼ばれます。実は世界で初めて飛んだ飛行機であるライト兄弟の「ライトフライヤー号」はこのプッシャー式を採用しており、今日では見慣れた感のある前方にエンジンを搭載するトラクター式の方が、登場は遅いのです。 「震電」は、そのプッシャー式のなかでも前翼(エンテ)機に分類されます。水平尾翼を廃し主翼の前に水平小翼を設置した飛行機で、この種の軍用機は第二次世界大戦中、日本のみならず世界中で研究されていました。 同機の研究開発が本格化したのは1943(昭和18)年からで、同年8月に海軍航空技術廠で前翼機模型の風洞実験を実施、それを基に翌1944(昭和19)年1月末には、実験用小型滑空機を用いた高度約1000mからの滑空試験にも成功しています。 こうして実機の開発に一定の目途が立ったことで同年2月には試作機の開発が決定、主契約会社として九州飛行機に白羽の矢が立ちました。なお当初、試作機の製作は内々のものでしたが、5月に「十八試局地戦闘機」の名称で正式発注となっています。 これを受け、九州飛行機は技術者を結集し会社一丸となって製図作業にあたった結果、1944年11月には設計を終わらせました。
アメリカでは実機の胴体が、日本では実物大模型が展示
ただ、このように機体の開発は順調に進んだものの、搭載予定であった「ハ43」エンジンの開発を担当していた三菱重工名古屋工場が、1944(昭和19)年12月から翌1945(昭和20)年1月にかけて断続的にアメリカ軍の爆撃を受けたことで、スケジュール通り進まなくなり、結果、全体の開発スケジュールは遅延しています。 そのようななか、1945(昭和20)年6月に「震電」の試作1号機が完成、蓆田(むしろだ)飛行場(現福岡空港)へ機体が運ばれます。翌7月には、設計者である鶴野正敬技術大尉による滑走試験中、機首を上げ過ぎたことにより、機体後部のプロペラ端が地面に接触してしまうという事故を起こしました。なお、このときプロペラを試作2号機用の物へと換装するとともに、以後プロペラが接地しないよう左右の垂直尾翼の下側に小輪を付けるという改修が行われています。 こうして機体修復を終えた「震電」は同年8月3日、初飛行に成功。続く6日と8日にも試験飛行を実施したものの、エンジン不調が発生したため、予備部品を三菱重工から取り寄せている最中に終戦となり、結局「震電」が空を舞ったのは前出の3回で終わりとなりました。 なお、終戦後「震電」の試作1号機はアメリカ軍に接収されたのち、10月には調査・研究のためにアメリカ本土に船で送られています。その後、複数のパーツに分解され、アメリカ国立航空宇宙博物館へ収容。長らく眠っていましたが、現在は機首部分のみ開梱のうえ、公開展示されています また、福岡県筑前町にある町立大刀洗平和記念館には「震電」の実物大模型も展示されています。ほかにも同館では旧海軍の零式艦上戦闘機(零戦)三二型や、旧陸軍の九七式戦闘機乙型の実機も展示しているため、それらと「震電」を見比べることで機体サイズや構造の違いなどを実感することが可能です。
乗りものニュース編集部