日本の近代住宅の“原型”を築いたモダニズムの傑作。土浦亀城邸が一般公開〈後編〉
1935年に建てられた住宅が、約90年の時を経て移築、復原され、このほど一般に公開される。今でも色褪せない理由を探った 【土浦亀城邸】吹き抜けの居間と中二階のギャラリー空間ほか(写真) 土浦亀城邸は、戦前に米国で暮らした建築家の土浦亀城と信子夫妻が、その便利で機能的な住空間を、日本でも浸透させるための実験台として、自らが被験者となって1935年に目黒に建てた自邸だ。90年ほどを経て、ポーラ青山ビルディング敷地内に移築、復原され、9月から一般への公開が始まる。
土浦は米国滞在中、どの住宅にも暖房、給湯設備、水道が組み込まれていることに感心し、近代的な暮らしとは、健康的な暮らしが基本であり、そのためには衛生設備が欠かせないと考え、日本の住宅でもそれを標準化しようと取り組んだ。日本の一般家庭で暖房や給湯システムがまだ整っていなかった時代、土浦邸では天井と屋根の間にヒーティングパネルを取り付け、お湯に関しては、地下の浴室の隣にボイラー室を設け、石炭を燃やしてパイプから給湯する仕組みを導入した。東洋陶器(現在のTOTO)が1928年に国内初の水洗式腰掛けトイレを商品化し、国会議事堂などの国家機関への納品に限られていた中、タイル貼りの浴槽や水洗式の腰掛けトイレを自邸にいち早く取り入れている。こうした設備は、地元の学校が社会見学の一環で訪れるほど、社会的な関心を集めた。近代的な暮らしの嚆矢が土浦邸にあったといえる。
こうした近代住宅を日本で実現するうえで、土浦が腐心したのは建て方だった。合理的な工業製品としてのコンクリートを造る技術が当時の日本では発達していなかったため、大工職人の現場作業を少なくできる木造乾式工法を採用した。これは今のプレハブ工法の嚆矢で、木造の軒組みに乾いたパネルを貼る工法だった。とはいえ、木造建築だったからこそ、解体して移築、保存ができたのであり、土浦邸がコンクリート建築であったら移築は実現しなかった。土浦自身は経済的に恵まれ、新しいコンクリート技術で家を建てることはできただろう。しかし、「自分と同じ青年俸給者のための住宅。従来の家屋の不便をできる限り除き、様式や習慣に囚われず、あらゆる点で合理的なるものを作りたいという、熱心な希望を持っていた」と、中流階級のための合理的な住宅づくりへの想いを語っていた。