娘を洗脳するためには、母は不幸でなければならない。親が子供を操るために仕掛ける罠の正体とは?
■被害者と加害者は意識において逆転している 自分語りとか自分史という言葉が世間に溢れているが、私たちは誰かとの関係でしか自分を語ることはできない。まして自分を産んだ母のことが、少しずつ、時には一つのきっかけを境に重く苦しく、うとましく、つらくなる。そんな自分を許せずになんども思い直そうと試みてもどんどんひどくなるばかりだ。時には母の姿、メール、電話の声すらも怖くなったりする。そんな娘たち(それも30代から60代までの幅広い年齢層)が参加するグループでは、まず母について語るというスタートラインが欠かせないのである。 似たようなことはDV被害でも見られる。自分が被害者なのか、自分のほうが原因をつくり相手をしむけたのではないか、隙があった自分に問題があるのでは、といった自問自答がずっと生起し続けるのである。そして加害者と名指しされることに多くの夫は怒り、むしろ自分のほうこそ被害者だと主張してさらに妻を責めるという悪循環が生まれる。 DVという定義の根底にあるのは、ジェンダーをめぐる非対称的関係性、わかりやすくいえば男女不平等な現実である。オリンピックを見るまでもなく、男性と女性はその身体的特徴に明らかな違いと差異がある。このような違いを無視すれば公正を欠くことになるだろう。男女がいっしょに100メートルを走ることが平等を表すわけではない。 中でも家族は、男性と女性、大人と子ども、老人と若者という、力において差異がある存在が共存する集団である。家族が平和裡に暮らすためには、力のある存在が力のない存在をどのように尊重していくか、自らの力をどうやって制御するかが試される。男性が力いっぱい女性を殴れば死に至るし、大人が子どもに腹を立てて食事を与えなければ餓死するのだ。 しばしば力を有する側は、自らのパワーに無自覚だからこそ、DVの加害者は、自分のほうが被害者だと主張するのだ。残念ながら力が付与されてしまっていること、自分が力関係の強者として存在しているという自覚を抜きにすると、親子・夫婦関係はたやすく支配と暴力に呑み込まれていくだろう。