破壊力には優れたが量産をすることができなかった名砲【99式10cm山砲】
かつてソ連のスターリンは、軍司令官たちを前にして「現代戦における大砲の威力は神にも等しい」と語ったと伝えられる。この言葉はソ連軍のみならず、世界の軍隊にも通用する「たとえ」といえよう。そこで、南方の島々やビルマの密林、中国の平原などでその「威光」を発揮して将兵に頼られた、日本陸軍の火砲に目を向けてみたい。 日本の工業生産能力と兵站(へいたん)能力を勘案すると、理論は別としても実地では、第二次世界大戦時の砲兵戦をアメリカはもちろんのこと、ソ連、イギリス、ドイツなどと互角に戦える能力はなかったというのが実情だろう。 砲そのものに加えて牽引(けんいん)車両と砲弾を必要なだけ生産し、それを最前線まで届けることもまたかなわない国だったからだ。 しかしこのような弱点は、日本陸軍自らがもっともよく認識していた。そのため、大量の砲と砲弾を必要とする地域制圧砲撃(間接砲撃)ではなく(太平洋戦争の緒戦では一部で実施できたが)、破壊すべき目標をピンポイントで直接に狙って行うため、少量の砲と砲弾でかたがつく直接砲撃を重視せざるを得なかった。 ゆえに山砲や歩兵砲といった、敵に接近してここいちばんの際に直射で狙い撃ちができ、しかも状況によっては分解して人力で運べる砲を重視することになった。「貧しき国の悲しき選択」と言ったら言い過ぎであろうか。 日本陸軍は、このような「軽便でとり回しのよい砲」の威力の強化を模索するなかで、中国軍から鹵獲(ろかく)したフランスのシュナイダー社製105mm砲に着目する。そこで同砲を試験・研究したところ、同砲を雛型として、既存の94式山砲よりも重くはなるが、より大威力の山砲の開発が可能と見込まれた。 かくして設計と開発が進められ、従来の75mmよりも大口径の105mmの山砲が、1939年に99式10cm山砲として制式化された。 組み立てられた状態では馬2頭で牽引。分解した場合は馬10頭に分けて駄載されたが、個々の部位はかなり重量があったので、原則的には牽引で、必要に応じて短距離の分解搬送が考えられていた。 口径は105mmなので従来の75mm山砲より強力だったが、いかんせん人力での分解搬送が困難な重量だったことと、すぐに太平洋戦争が始まったことで、既存の92式歩兵砲の増産が優先されたため、わずかに約100門が生産されたに過ぎず、実戦における評価もほとんど知られていないようだ。
白石 光