マルチな活躍・大林素子「コンプレックスを最大の武器に」
マルチな活躍・大林素子「コンプレックスを最大の武器に」 THE PAGE大阪
夢は祈っても叶わない、叶えるためには自分から動かないと。練習しないことには強くならない、それは選手時代と変わりません──。女子バレーボール日本代表のエースアタッカーとして活躍し、現在はスポーツキャスターや大学の客員教授などでも活躍する大林素子(48)。女優としての顔も持ち、10月からは演じて7年となりライフワークともなっている舞台公演「MOTHER~特攻の母 鳥濱トメ物語~」で主演を務める。様々な夢に向かって挑む大林だが、こうした思いが生まれるまでには様々な道のりがあった。
生き方を変えたアニメ「アタックNo.1」
東京都小平市生まれ。バレーボールを始めたのは中学1年生の時だった。「元々は幼稚園の時から歌手になりたかったんです。アイドルなど芸能界にあこがれていました。けど、小学生の時から背がどんどん伸びて大きい大きいとからかわれまして。それは悪意がなかったとしても、言葉の暴力って、きつかったですね」 だが、小学4年生の時、バレーボールを題材としたテレビアニメ「アタックNo.1」を見たことが、大林の生き方を変えた。「私がバレーボールでオリンピックに出たら、いじめていた人たちを見返せるかもしれない」。同アニメの主役、鮎原こずえの活躍ぶりをみて「これなら私の背の高さが唯一生かせる」と考え、中学からバレーボール部への入部を決めた。 振り返れば、運動神経が抜群というわけではなかった。逆立ちができるわけでもなく、運動会でヒーローになることもなく、体育の成績もこれといって普通だった。しかし「見返したい」という思いから、バレーの道へ。その瞬間「アイドルになりたい」という夢は封じ込めたという。 「人って人生で何かをつかむとき、環境って大きいと思うんですよね」と語るように、環境も大林の活躍を後押しした。というのも、住んでいた小平市は、日立バレーボール部の練習場があり、よく自転車で15分ほどの場所の練習場にも通い、選手らを目の当たりにした。バレーボールを始めるまでは練習場があるのも知らなかったという。 そして八王子実践高校に進学後は春高バレーで準優勝するなど大活躍。在学中の1985年に日本代表へ初選出され、同年のワールドカップで国際大会デビューも成し遂げた。「思い出の試合は?」との質問には「終わっちゃった試合は忘れますけど」と前置きしながらも「初めてでたソウルオリンピックの試合は忘れられないですね。21歳であの場所にいて。ロシア(当時:ソ連)に勝利できたのは大きかったですね」と振り返る。