安倍から岸田へ「米国に見捨てられる恐怖」対する中国「黙ってない」
「集団的自衛権の解禁」、奥底にあった恐怖心
米国でオフショア・コントロール戦略が出てきた直後、当時首相だった安倍が国会で次のように答弁し、日米の「盾と矛」という役割分担を見直す必要性を示唆しました。 「抑止力とは、つまり攻撃をしたら痛い目に遭うよ、そもそも攻撃することは考えない方がいいという状況をつくっていくことでございますが、彼らが(に)、もしこの矛を米軍がこういうケースでは使わないんではないかという間違った印象を与えることはあってはならないわけでございまして、そこで、今まさに日本を攻撃しようとしているミサイルに対して、米軍がこれは攻撃してくださいよと、米軍の例えばF16が飛んでいって攻撃してくださいよと日本が頼むという状況でずっといいのかどうかという問題点、課題はずっと自民党においても議論をしてきたところでございます」(2013年5月8日、参議院予算委員会) つまり、「矛」の役割を百パーセント米国だけに委ねていると、いざという時に使ってくれない可能性があるので、日本も自ら「矛」の役割を果たすことで米国にも使ってもらえるようにしようという考えです。 これは、2014年に安倍内閣が憲法解釈を変更して集団的自衛権の行使を解禁した時の動機とも、よく似ています。 集団的自衛権とは、同盟国などに対する武力攻撃に対し、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず武力を用いて反撃する権利のことです。 国連憲章では認められていますが、日本政府は「憲法第9条の下で許容される自衛権の行使は自国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきことから、集団的自衛権の行使については、この範囲を超えるため、憲法上認められない」(1981年5月29日、稲葉誠一衆議院議員の質問主意書に対する答弁書など)という憲法解釈を長年堅持してきました。これを安倍内閣が変更し、「存立危機事態」と認定すれば集団的自衛権を行使できるようにしたのです。 安倍は、米国が戦争をする時に日本も一緒に戦わなければ、日本が攻撃された時に米国は一緒に戦ってくれない可能性があると考えていました。2004年に刊行された対談本の中でも、次のように述べていました。 「軍事同盟というのは"血の同盟"です。日本がもし外敵から攻撃を受ければ、アメリカの若者が血を流します。しかし今の憲法解釈のもとでは、日本の自衛隊は、少なくともアメリカが攻撃されたときに血を流すことはないわけです。実際にそういう事態になる可能性は極めて小さいのですが。しかし完全なイコールパートナーと言えるでしょうか」(安倍晋三・岡崎久彦『この国を守る決意』扶桑社、2004年) いざという時に米国に見捨てられるのではないかと心配し、見捨てられないために米国への軍事的協力を拡大するーーこれが安倍内閣から岸田内閣へと続く「防衛政策の大転換」の根っこにある思考だと私は見ています。