“釜石の奇跡”当事者の葛藤、教訓伝える26歳「命守るため」 東日本大震災からまもなく13年
日テレNEWS NNN
東日本大震災からまもなく13年。“釜石の奇跡”――小中学生ら約570人が津波から迅速に避難して、このように称賛されたのですが、当事者にはある葛藤がありました。 (※動画の中で津波の映像が流れます。ストレスを感じた場合は視聴をお控えください) ◇ 今月3日、岩手県釜石市で慰霊碑を見つめていたのは紺野堅太さん(26)です。13年前、兄のように慕っていた大切な人を亡くしました。
紺野堅太さん(26) 「できることなら生きていてほしかったなと思いますし、まだ会って遊びたかったなという思いはありますね」 ◇ 2011年3月11日、岩手・釜石市に巨大な津波が押し寄せました。
当時、中学1年生の紺野さんが通っていた釜石東中学校があったのは、海から約500mの場所です。最初に激しい揺れを感じたのは、3階の教室にいたときでした。 紺野堅太さん 「立てなかったので、四つんばいになって、机の下に隠れて揺れが収まるまで机の脚を持って待っていた」 「山沿いのほうの道を走って奥の方まで(逃げた)」
当時の写真には、子どもたちが列をつくり、手をつないで避難している様子が写っていました。 釜石東中学校と隣接する鵜住居小学校では、日常的に防災訓練が行われ、この日も津波から逃れるため、訓練どおり高台を目指しました。 坂をのぼり避難したという紺野さん。すると… 紺野堅太さん 「さっきまでいた街の方見たら、もう街のほとんどが黒い海になっていて。(ここで)はじめて津波を見て、あの瞬間は誰か言葉発するとかそういうこともなく、ただ本当にぼう然と、もう街なくなるんだという感じで」
その後、一度も振り返ることなく、さらに上の高台まで走り続けたといいます。一緒に避難できた子どもたち、その数は約570人。メディアなどから“釜石の奇跡”と称賛されました。 ◇ しかし、紺野さんの思いは複雑でした。 紺野堅太さん 「当時は奇跡と呼ばれるのはすごく違和感がありましたね。奇跡って言葉だけで称賛して終わり、きれいな部分だけみせて終わりにはしてほしくなかった。大切な人も亡くしてしまいましたし」