「極楽で暮らしてみたけれど」すべてに満足しているという不幸せ サンパウロ市在住 毛利律子
どこも悪くない不幸せ
一昔前まで、政治と宗教の話は人前でするなと言われていたが、この頃はそれに健康法を足して、この三つを語ると人間関係が悪くなると言われる。つまり、互いに聞く耳がない。自分の考えが一番正しいという答えを持っているからである。 世界中が高度経済・最先端医療・医療保険の充実などで、医療費さえ払えればすぐに治療を受け、健康診断ができる。結果は、いつも悪いところは一つもない。 ところが、どこも悪くないのに、笑顔が寂しい。内心、どこも悪いところが無いはずはないと思っている。一病息災という拠り所が無い。どこも悪くなくても、心の奥に不安を抱き続ける不幸せである。
お腹が空いてないが、なんとなく食べ、余ったら捨てる
この世の極楽社会は飽食社会でもあり、食べ物を毎日大量に捨てる社会である。大昔から人類は、日本の昔の人々も、どれほど空腹に耐えていただろうか。昭和ひとケタ、ふたケタ世代は、「出されたものはすべて食べろ。食事中はよそ見をするな。食べ損ねると『食い物恨み』を買うぞ」という時代を生きてきた。今の団塊世代の高齢者はそれを体験したはず。 ところが子や孫は、お腹も空いてないのに、「なんとなく」食べている。テーブル一杯にご馳走を注文する親は「無理しなくていいよ。残せばいいから」と、さも正論の様に言う。 一方では、貧困で満足に食べられない子供たちもいるし、餓死する人もいる現実である。飢えは死に直結しているのである。この飽食社会は、どれほど恐ろしい犠牲の上に成り立っていることか。
終の棲家選びは極楽か、地獄の分かれ道か
「終の棲家」は、高齢者が人生最後の時に、「どこで、だれと、どのように最期を迎えたいか」を選ぶ最重要な要素である。選択を間違えると、大満足か大後悔の深刻な事態に至ることになる。 それでは何を基準にして終の棲家を選ぶか。国も自治体も、その対策として次のように提案を掲げ、相談窓口を設けている。 ●今の住まいを「終の棲家」にするか ●利便性の高い住宅に住み替えるか ●高齢者施設に入所するか ●子供と二世帯住宅で暮らすか ●介護に備えるためには、事前準備としての経費、つまり老後資金の問題と、同居介護者の忍耐力がどこまで続くか ●バリアフリーリフォームは健康配慮されてるか ●共同住宅という暮らし方 ●災害対策、警備対策に十分対応しているか 以上のことを含め、高齢者には直近の問題として、向き合わねばならない。 世界は、戦後の束の間の極楽もどきの安穏を味わい「この世は極楽、極楽」とぬか悦びしてきたが、いよいよ、その平和に飽きたのだろうか。今や止まることを知らない戦争という地獄を繰り広げている。 この物語を読みながら「次も人間に生まれるだろうか。死んだら極楽(天国)に行けるでしょうか」という、素朴で永遠の問いへの答えを、にわかに模索し始めたところである。 【参考文献】インターネットの図書館「青空文庫」(https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/2695_41308.html)第三巻」文藝春秋新社、1960年5月20日発行
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