縄文・弥生時代に広まった入れ墨文化の目的は? 古代人の価値観や習慣の大転換があったのか?
縄文時代とか弥生時代、古墳時代などと、ひとまとめにされると、単一で同じ文化や価値観を持った人たちが暮らしていたように思いますが、本当にそうだったのでしょうか? ■土偶や土器に残された古代日本人の入れ墨文化 古代史を俯瞰すると、旧石器時代から縄文時代を経て、弥生時代で国家形成の基礎造りがあって、広く浸透する古墳文化と同時に大和王権が畿内を中心に国家を造った、という日本列島での流れが見えてきます。過去には一本棒のように単一で成長したかのように言う人もいましたが、もちろんそれはそんなに単純でも順調でもなかったはずです。 博物館の展示を拝見していると、人の顔を彫り込んだり墨で描いたりした出土物に出会うことがあります。それらを拝見していると、ふと不思議なことに気づかされます。 縄文・弥生の土偶や埴輪、または線刻土器に描かれる人物の顔には、入れ墨のあるものがよくあります。それは神の顔だとも言われますが、こういうものを「黥面(げいめん)土器」と呼び、その広がりを研究している方もいらっしゃいます。 どうも縄文・弥生時代に日本列島に暮らした人々は入れ墨の文化を持っていたようです。 『魏志倭人伝』にも倭人の習俗として以下のように記録されています。 男子無大小皆黥面文身。~(中略)~夏后少康之子封於会稽、断髮文身以避蛟龍之害。今倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽。後稍以為飾、諸国文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。計其道里、当在会稽・東冶之東。 倭人の男はみんな、大小さまざまな入れ墨を顔や体に施している。~(中略)~。古く夏后の少康の子が会稽(かいけい)に赴任させられた時、髪を短くし体中に入れ墨をしてサメやウミヘビの害を避けたという。 まさに倭人も好んで海に潜り海の幸を獲っているが、体一面の入れ墨は海の害獣が嫌うのだ。しかしそれも今は体の装飾になっていて、それぞれの国によって入れ墨のデザインが違う。左に入れ墨する国、右にする国、または大きかったり小さかったりと個性があり、また身分の高低を表すルールもあるようだ。倭国がどこにあるかというと、まさに会稽・東冶の東に海を隔てた所なのである。 魏使が訪問した弥生時代の倭国では、顔や体中に入れ墨をした男たちがウロウロしていたわけです。 中国にも「黥布(げいふ)」という将軍が『史記』に登場しますが、彼は顔一面に入れ墨をしていました。 しかしそれは好んで入れたのではなく、かつて大きな罪を犯したために罰として入れ墨されたということです。 『倭人伝』のいう中国第1王朝期ともいえる「夏后(かこう)氏」の話は紀元前2000年ごろの話で、『史記』の「黥布」は紀元前200年ごろの人だとされています。ですから中国大陸では、秦帝国統一以前にはすでに入れ墨が「刑罰」という価値観に大きく変化しているのです。 しかしながら3世紀の邪馬台国時代の倭人はそれぞれの国のアイデンティティとして、まるでIDカードのように、その所属や階級を示す必要があって入れ墨をしていたというのです。これには魏使たちも驚いたでしょうね。 現代の私たちは、「本当にそんな野蛮な風習が邪馬台国時代にはあったのか?」と疑いたくなりますが、出土する土器や土偶、埴輪などには「黥面」がよく描かれています。 しかしながら後には、わが国でも入れ墨は罪人の印とされています。『日本書紀』の履中紀に謀反加担の者に「即日黥」という記録がありますが、いったいいつ、どういう理由で天地が入れ替わるほどの価値観の変化があったのでしょうか? こう考えれば、『魏志倭人伝』に記載されている弥生時代末期の邪馬台国で必要とされていた入れ墨習俗が、大和王権の時代には完全に排除されているように感じることに疑問を強くせざるを得ません。 古墳時代の盾持ち埴輪には一部入れ墨のある顔がありますがポピュラーではなくなりますので、邪馬台国時代の人々と古墳時代の大和王権の人々は、民族や人種がすっかり入れ替わっていたのでしょうか?そんな疑いまで持ちたくなります。 しかし入れ墨文化に関しては、さまざまな説もあります。『魏志倭人伝』の風俗報告をみると、倭人は衣服が実に粗末で、後の時代のように着る物の色や形で身分を示すことがまだできなかったようです。 どうも人類は着の身着のままの時代には体に直接装飾をしていたようで、これは世界的にも見られる現象だそうです。 そうであるなら入れ墨が刑罰になるのは、装飾衣類を着用できる時代からだと考えねばなりません。 生涯消えない入れ墨を顔面に入れられるというのは、実に残酷な刑罰ですね。江戸時代にも島帰りやスリで捕まった者には腕などに入れ墨をして、その履歴としていました。 弥生時代の入れ墨文化でもう一つ気になるのは、大乱があったことです。乱闘の際に絶対に敵と味方を間違えないのは昆虫、特に蟻だと聞いたことがあります。源氏の白旗・平家の赤旗、忠臣蔵の討ち入りの合言葉「山・川」、黄巾族の乱の鉢巻き、戦国大名の旗印や馬印、第二次世界大戦の時の夜戦で日本の旧海軍艦艇が味方を示すために側面になびかせた白く長い旗印、運動会の白帽・紅帽などなどで、人間は敵・味方を識別しなければなりません。 つまり人間の同士討ちは歴史上枚挙に暇がありませんので、黥面文身の必要性はその辺にあったのかとも考えたくなります。 今また、タトゥーファッションが流行っているようですが、3世紀に魏使たちが目を見張ったような気にさせられる時がありますね(笑)。
柏木 宏之