東日本大震災から13年の時を経て“恩返し” 石巻で「奥能登地域」の球児招いた交流試合
その状況下でもトレーニングや自主練習を怠らず、最後の夏は「一球一球、感謝の気持ち」を込めて投げた。小松市立高との石川県大会初戦でノーヒットノーラン(6回参考)を達成するなど好投を続け、初の8強入りに貢献。困難を乗り越え、高校野球をやり切った塩士は、進路は未定だが今後も野球を継続する予定だという。 今回の交流を通じ、「東北には震災から10年以上経っても住めない地域があると聞いて、つらいなと感じました」と話すように、日常のはかなさを再認識した。だからこそ、胸に誓う。「こうやって今日も野球をできていることは当たり前ではない。震災のことを忘れてしまう人もいると思うんですけど、自分は絶対に心の中にとどめて、場所を変えて野球を続けたとしても奥能登地域の方々に活躍を届けたい。明日からまた、頑張ります」。
「自分で自分の命を守る」術伝えられる教師を目指して
宮城県高野連選抜は2連勝。交流試合前のオープン戦で全勝した勢いそのままに、2試合とも投打が噛み合い快勝した。
仙台六大学野球連盟選抜との試合に「4番・捕手」でスタメン出場した千葉虎太朗捕手(石巻高)は、新沼櫂我投手(日本ウェルネス宮城高)、熊谷太雅投手(東陵高)と県内屈指の好投手をリードし0に抑えると、第4打席では安打をマーク。「最後に一本出て、チームも良い終わり方をできてよかった」と笑みを浮かべた。 東日本大震災発生当時は4歳。記憶は「ほとんど残っていない」が、津波で地元・女川町のアパートが流され、母を亡くした事実は残った。その後、隣接する石巻市に移り住み、小学2年生の頃に野球と出会ってからは白球を追い続けてきた。
「奥能登選抜には、火事で家がなくなったという選手もいた。自分は(震災で)つらい思いをしていましたが、石川にも同じような人がいると分かって、お互いに励まし合うことができました」。今回の交流では、野球の話も震災の話も、腹を割って話した。 また、津波に巻き込まれて児童、教職員計84人が犠牲になった旧石巻市立大川小を奥能登選抜のメンバーとともに見学した際は、改めて身の引き締まる思いがした。大学では野球を継続しつつ教師を目指す予定だといい、「防災教育をしっかり学んで、一人一人が自分で自分の命を守れるよう、教えられる教師になりたい」と力を込めた。