多くの日本人が知らない「なぜ日本兵1万人がいまだ行方不明なのか」の実態
なぜ日本兵1万人が消えたままなのか、硫黄島で何が起きていたのか。 民間人の上陸が原則禁止された硫黄島に4度上陸し、日米の機密文書も徹底調査したノンフィクション『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』が13刷ベストセラーとなっている。 【写真】日本兵1万人が行方不明、「硫黄島の驚きの光景…」 ふだん本を読まない人にも届き、「イッキ読みした」「熱意に胸打たれた」「泣いた」という読者の声も多く寄せられている。
「硫黄島 連絡絶ゆ」
約1ヵ月前に硫黄島南部に上陸した米軍は遂に、兵団司令部壕の目前に迫っていた。 キャタピラ音や砲撃音が、絶海の孤島の温い空気を切り裂く。戦車を先頭に前進する米軍部隊が、壕の入り口からも見える。それほどの近さだ。 「死を急ぐな!死を急ぐな!」 壕の入り口に立つ髭面の参謀の声が響く。最高指揮官の栗林忠道中将が守備隊兵士2万3000人に命じたのは、1日でも長い持久戦だ。米軍の本土侵攻を1日でも遅らせる狙いがあった。「壕に戻れ!壕に戻れ!」。出撃しようとする兵士たちに、別の将校が連呼した。 既に電灯がつかなくなって久しい壕の内部。片隅からはうめき声が上がる。戦車の前進を食い止めるべく、九九式破甲爆雷などを手に肉薄しようとし、機銃掃射や火炎放射で跳ね返された兵士たちだ。大勢が横たわる。血と汗のにおいが広がる。 地下20メートルに築かれた兵団戦闘指令所では将兵たちが右往左往していた。 「兵団ハ本十七日夜総攻撃ヲ決行シ敵ヲ撃摧セントス」 1945年3月17日午後5時50分。栗林中将が遂に最後の総攻撃の命令を発したのだ。 20台の無線機が並ぶ通信所は指令所の一角にある。参謀から暗号手を経て通信手に電報文が渡された。本土の大本営への通信を中継する父島通信隊に向けた「訣別電報」だった。 「国ノ為重キ努ヲ果シ得デ 矢弾尽キ果テ散ルゾ悲シキ」 栗林中将の辞世などを伝える内容だった。送信後、暗号書は焼却処分された。平文を暗号文に換えることはできなくなった。 硫黄島には複数の通信部隊があった。激戦の実相を伝える膨大な電報を発信した。 「本戦闘ノ特色ハ敵ハ地上ニ在リテ友軍ハ地下ニ在リ」 戦後、摺鉢山山頂の慰霊碑に刻まれることになるこの電報も、そのうちの一つだった。守備隊は総延長18キロの地下壕を構築し、身を隠してゲリラ戦を展開したのだ。 「我等ハ最後ノ一人トナルモ『ゲリラ』ニ依ツテ敵ヲ悩マサン」 栗林中将の厳命の一つだった。 最後の総攻撃までの残された時間で、ある行動に出た通信兵がいた。大本営ではなく、父島通信隊に向けた通信を始めたのだ。硫黄島の通信兵の一部は元々、父島通信隊の所属だった。彼らにとって、父島側の通信機の前にいるのは、顔なじみの戦友たちだった。 「サヨナラ サヨナラ オセワニナリマシタ」 暗号書は、もうない。だから、すべて平文だ。 「○○ニヨロシク △△ニヨロシク……」 別れを伝えたい人たちの名前と住所を次々と打ち込んだ。父島側から返信が届いたが、応じる余裕はない。「ジカンガナイ ジカンガナイ」と発信した。 最後の総攻撃の命令は下ったものの、守備隊は敵の包囲によって出撃できない状況が続いた。通信兵はなおも打電を続けた。活躍した部隊の殊勲上申や、敵戦車の装備や装甲の厚さなどを発信した。戦いの実相を最後の最後まで伝えようとした。 そして23日午後5時、別れの電報を放った。 「父島ノ皆サン サヨウナラ」 総攻撃は、3日後の26日だった。栗林中将以下400人が敵陣に突撃、壊滅した。 こうして36日間の組織的戦闘は終わった。この戦闘に加わらなかった残存兵の大半は栗林中将の厳命を守った。投降を拒否し、壕にこもり続けるなどして、絶命した。結果、守備隊2万3000人のうち、戦死者は2万2000人に上った。致死率は95%に達した。