音楽、映画、ゲームというソニーのエンタメ部門全ての繁栄を導いた大賀典雄が最も苦労した「後継者選び」
ソニーは何の会社かと聞かれ、戸惑う人も多いだろう。テレビなどのAV機器は誰もが知っているが、ゲーム会社でもあり、映画や音楽、金融もある。それこそが世界で無二のソニー(ソニーグループ)の最大の特徴だ。そしてこの異色の会社の礎を築いたのが、元はプロの声楽家だった「異能の人」、大賀典雄氏(1930年─2011年)だった。 【写真】会場から拍手が沸き起こった大賀氏の社長退任会見(1995年3月22日) ■ 音楽家の大賀氏だからこそできたCD規格を巡る「ネゴシエーション」 東京芸術大学声楽科出身の大賀典雄氏は、ソニー入社後しばらくは声楽家とビジネスマンの二足のわらじを履き続けていたが、あまりの多忙さから音楽の道を自ら断った。 そして還暦を過ぎてから、今度は指揮者として音楽の世界に戻り、世界の名だたる楽団を相手にタクトを振るった。北品川にあったソニー本社応接室の、大賀氏が座る席のサイドテーブルの上には、常にタクトが置かれていた。 指揮者に転じたのは声楽を続けるには喉を鍛え続けなければならず、中途半端な声では人前で歌うことなどできないと考えていたためだ。それほどまでに大賀氏は、声楽家の自分に強いプライドを持っていた。 この大賀氏の音楽経験が、ソニーが「ハードとソフトの両輪経営」を進める上で大いに役に立ったのは前編(「日本を代表する『異能の経営者』、プロの声楽家だった大賀典雄はなぜソニー入りを決断したのか」2024年10月31日公開)でも書いた。 CBSレコードと合弁でCBS・ソニーレコード(後にCBS・ソニーに社名変更、現ソニー・ミュージックエンタテインメント)を設立し、約10年で日本一のレコード会社に成長したのも大賀氏の存在があったからだ。 しかしこれだけなら、単に「音楽事業でも成功したソニー」というだけに過ぎない。両輪経営が本格化するのは、大賀氏が社長になってからだ。
1982年9月、大賀氏はソニーの第5代社長に就任する。前任者で創業者・盛田昭夫氏の義弟だった岩間和夫氏の死去に伴い、副社長から昇格する。そしてその1カ月後、ソニーはCD(コンパクトディスク)プレーヤー及びCDソフトを発売した。 CDはオランダ・フィリップスと共同開発したものだが、当初、規格が折り合わなかった。フィリップス側は記録時間60分を主張した。LPレコードが表裏合わせて40分程度であることを考えれば、これで十分だというわけだ。 一方、ソニーというより大賀氏が主張したのは75分。これは日本人に人気のベートーベンの「第九」に必要な時間だった。そこで大賀氏は、懇意にしていた世界的指揮者カラヤンも「75分を支持している」ことを強調、フリップスを説得した。これは大賀氏が音楽家だったからこそできたネゴシエーションだった(実際のCDの記録時間は74分)。 もっとも、開発には成功したものの、音楽業界は「レコードが普及しているのになぜ新規格を導入するのか」と猛反発した。CDが普及すれば既存のプレーヤーやレコードの工場は役に立たなくなる。過去の成功体験が新しいものに対して拒否反応を示すのは世の常だ。 ここで生きてきたのがCBS・ソニーの存在だった。すでに日本一のレコード会社の座を盤石のものにしていた。他社が反対しても、自分たちだけで人気ソフトを販売できる。こうしてCD及びプレーヤーを発売。初号機は16万円台だったが、翌年5万円以下のプレーヤーを出したことで人気に火が付いた。CDはレコードよりはるかに小さく、扱いやすい。しかも雑音が少ないなど音質も良い。音楽の主役がCDになるのは必然だった。 そのため当初は反発していたレコード会社も、一斉にCD販売に踏み切った。しかしCD工場がないことから、当初はCBS・ソニーの工場が引き受けた。ソフトが増えればハードも売れる。相乗効果でソニーのCDプレーヤーが売れていくし、他社のプレーヤーが売れるたびにソニーとフィリップスに特許料が転がり込んだ。こうしてソニーは、CDの大成功で業績を一気に拡大した。 この成功が、1989年のコロンビア映画(現ソニー・ピクチャーズエンタテインメント)買収につながった。 ■ 「授業料」が高くついた映画事業だが、いまや売り上げは1兆円超に CDを販売した当時、家庭用ビデオではソニーの開発したベータ方式と、日本ビクター(現JVCケンウッド)の開発したVHS方式が覇権を争っていた。ビクターは松下電器(現パナソニックホールディングス)などを仲間に引き込み、競争を優位に進めていく。そして決め手となったのが、映画ソフトを多数抱える米映画メジャーがVHS方式に一本化したことだった。ソニーは性能においては絶対的な自信を持っていたが、それでも勝負に勝つことはできなかった。 「CDのように、自分たちが映画ソフトを持っていたなら、ビデオ戦争の行方も違うものになっていたのではないか」 これが大賀氏と、当時会長だった盛田氏の共通認識だった。時代はバブル真っただ中。1985年のプラザ合意以降、円高が進み、海外でM&Aをするのにこれ以上の環境はなかった。そこで目をつけたのがコロンビア映画だった。 しかし映画は音楽のようにはうまくいかなかった。大賀氏もハリウッドの事情には明るくない。そこでソニー・アメリカのトップの助言に従い、2人の映画プロデューサーに経営を任せることにしたのだが、これが大失敗。 彼らは自分たちの享楽のために、会社の金を湯水のごとく使った。その顛末は『ヒット&ラン(食い逃げ)』というノンフィクションにもなったほど。その後、2人をやっとの思いで追い出したが、この浪費もあって、ソニーは1994年に約3000億円の特別損失を出す羽目に追い込まれた。 授業料は高くついたが、映画事業はその後持ち直し、現在ではソニーの映画部門の売り上げは1兆円を超え、営業利益は1000億円超(2024年3月期)と、ソニーの経営を支える柱のひとつになっている。 しかも、ソニーは平井一夫氏が2012年に社長に就任して以来、リカーリングビジネス(売り切りではなくサブスクなどの継続課金ビジネス)にかじを切ったが、映像配信会社に映画ソフトを提供するソニー・ピクチャーズは、リカーリングの一翼を担っている。これも、映画部門への進出を決めた、2人のカリスマの決断があってこそだ。 そして今やソニーのセグメント別売上高の中で最も大きいゲーム事業も、大賀氏抜きにはあり得なかった。