音楽、映画、ゲームというソニーのエンタメ部門全ての繁栄を導いた大賀典雄が最も苦労した「後継者選び」
■ 役員全員が反対したゲーム事業立ち上げに大賀氏がゴーサインを出したワケ ソニーのゲームというと、プレイステーションの開発者、久夛良木健氏の名前がすぐに浮かぶ。確かに久夛良木氏なしに、プレステがここまで成長することはなかった。しかし当初ソニーは、ゲーム事業を任天堂と共同で展開する予定だった。ところが任天堂の中興の祖である山内溥氏が、その約束をほごにする。家庭用ゲーム機の覇者だったソニーとの交渉決裂で、ソニー社内では撤退の空気がまん延していた。 そこで久夛良木氏は1992年6月の経営会議で「ゲーム事業を立ち上げるべきだ」と強く主張するも、そこにいる取締役はほぼ全員が反対だった。しかし最後の最後、大賀氏が机をたたき「Do it!」と叫んだことで全てが変わった。 久夛良木氏は独創的なある種の天才だが、孤高の人であり、その分、社内に敵も多かった。これはある意味、大賀氏と共通する。その能力は誰もが評価するが、だからといって好かれてはいなかった。それでも大賀氏の場合、盛田氏と、もう一人の創業者、井深大氏という後ろ盾があった。恐らく大賀氏は、久夛良木氏に自分の姿を重ね、その後ろ盾に自分がなろうと考えた。それが「Do it!」だった。プレステの快進撃はこの瞬間から始まった。 このように、音楽、映画、ゲームの3部門、つまりソニーのエンタメ部門の全ては、大賀氏なしには存立し得なかった。そしてソニーがエレキからエンタメ、金融までをも包括する、世界で唯一の会社に成長することもなかった。その意味で大賀氏は、紛れもなくソニーにとって中興の祖と言えるだろう。
■ 後継者選びの足かせになった盛田昭夫氏との「約束」 そんな大賀氏が最も苦労したのが後継者の選定だ。 大賀氏が社長に就任したのが1982年。出井伸之氏に社長の椅子を譲ったのが1995年だから社長在位は13年に及んだ。 社長時代の大賀氏は、後継者について聞かれるたびに、「私以上の人がいればいつでも社長の座を譲る」と答えていた。会長になった直後にも次のように語っていた。 〈ビジネスマンとして負けたなという感じは、今日まであまり持たないできましたね。自分より優秀な人がいたら、いつでも喜んで社長を譲りたいと思っていた。しかし、残念ながらこの人ならソニーを私より上手にやるだろうなという人に会わなかったことも事実だし、あなた方が見て、そういう人がいたかどうか。残念ながら、わが社の中で自分ほどの能力を持っているやつがおらんなと思って、そのくらいの自信があったからやってこれたんですよ〉(月刊経営塾1995年臨時創刊号「一冊まるごとソニー」より) 大賀氏には呪縛があった。大賀氏以前のソニー社長は、すべてエンジニアだった(ソニーの前身、東京通信工業初代社長の前田多門氏を除く)。井深氏が書いた設立趣意書に「自由闊達なる理想工場の建設」とあるように、技術者たちが思い切り腕を振るえる会社をつくる、それこそがソニーの存在意義であり、そのためには社長は技術屋でなければならなかった。 大賀氏はエンジニアではないが、技術に関しては理系出身者に負けないほどの知識があった。その上で大賀氏は、盛田氏から次のように言われていた。 「君は特別だ。だけど君の次は技術者を社長にしてほしい」 それが後継者選びの足かせになった。一時、大賀氏はこの言葉に従って候補者も考えた。しかしある種の不祥事もあり、この後継者は姿を消す。そして何より、「ハードとソフトの両輪経営」を追求した結果、すでに技術に明るいというだけでは率いることのできない会社になっていた。それが後継者選びを難しくし、大賀氏の長期政権にもつながった。 そしてようやく「消去法で選んだ」(社長交代会見における大賀氏の言葉)のが、非エンジニアで海外経験も長く、フランスの映画監督、ルイ・マルなどとも親交があった出井氏だった。大賀氏はエンタメ事業を育てることに成功したが、それがために、盛田氏との約束を破らざるを得ない、単なるエンジニアには経営できない会社にソニーを進化させていた。 それは大賀氏以降のCEOを見ても明らかだ。出井氏、ハワード・ストリンガー氏、平井氏、吉田憲一郎氏、そして現在の十時裕樹氏に至るまで、全てエンジニアではない。この流れは大賀氏の時代につくられた。それが間違いでなかったことは、前3月期まで売上高が過去最高を更新し続けている業績が証明している。 1995年に出井氏に社長を譲り会長となった大賀氏は、2000年に取締役会議長となる。2001年には北京でオーケストラの指揮中に「くも膜下出血」で死線をさまよった。それもあって大賀氏は、2003年1月、取締役を辞して名誉会長となった。 この時大賀氏は、出井氏を伴い会見に臨んでいる。その退任会見での「生まれ変わってもソニーに入りますか?」との質問に対し大賀氏は、「井深さん、盛田さんがいるなら、ぜひソニーに入りたい」と答えている。 この時、井深氏、大賀氏とも鬼籍に入っていたが、2人にとって何よりうれしい言葉だったはずだ。大賀氏に音楽家としての道を諦めさせたことへの後悔が、この一言で払拭されたに違いない。 ちなみに、日本で経営者が登場する会見では、記者は基本的に冷ややかだ。ところがこの退任会見では、全てが終わった時に自然と拍手が沸き起こった。それほどまでに大賀氏のソニー愛が感じられる会見だった。 さらに余談だが、この会見の3カ月後に「ソニーショック」が起きてソニー株は2日間にわたりストップ安をつける。そしてソニーは長い低迷期間に入り、ここから浮上するまで10年以上の時間が必要だった。 その意味でも、大賀氏はソニーの繁栄を導き、そして時代の幕を引いた経営者だった。 【参考文献】 『SONYの旋律 私の履歴書』(大賀典雄著) 「月刊経営塾」(1995年臨時創刊号「一冊まるごとソニー」)
関 慎夫