1億円の借金、売れない漫画...「ドラゴン桜」作者が見せた大逆転劇とその舞台裏
東京へ移住、しかしマンガを描いても1円にもならない
ところが、そこから売れるまでには時間がかかったという三田さん。原稿料はアシスタントの給料に消えてしまい、マンガを描いても1円にもならない状況に陥ってしまったそう。経済的には決してラクではない状況だったものの、三田さんは悲観はしていなかったと当時を振り返ります。 「借金で苦しんでいた時代が10年ぐらいあったので、お金が入ってくる状態であれば、いづれはいいことがあるだろうと思って、マンガを描き続けていました」 しかし、『クロカン』の連載途中に"ただ描くだけではなく、1位を狙わないと生き残れない"と編集部に発破をかけられることに...。三田さんは、一念発起して、売れるマンガを徹底的に研究し始めます。 「現実を突きつけられました。読者アンケートで4番手、5番手にはいないと連載を続けられない。どうやったら順位をキープできるのか...。最初は1位なんて無理だと思っていたのですが、編集者に会うたびに1位を狙いましょうと言われて、これは目指す姿勢をみせないとだめだと思いました。 そこで考えたのが、1位のマンガのように描くということ。1位のマンガはなぜ1位なのかを研究し、その理由を自分のマンガにも反映させていきました」 "エンタメをかかないと大衆は支持してくれない"。その事実を悟った三田さんは、「エンタメとは何か」ということを突き詰めて研究していたといいます。
40代で訪れた2つの転機...週刊連載2本に挑戦
そして漫画家としてのキャリアが軌道に乗り始めます。なんと『クロカン』の連載中に、さらに別の出版社からも声がかかったのです。 「『クロカン』連載中に突然、講談社の編集者から電話がきて、月刊の『ヤンマガ』で描いてくれないかと言われました。週刊連載は、体力・気力・根気すべてをつぎ込まないと続かないものです。人的リソースをすべて注ぎ込む大変過酷な作業でしたが、月刊誌の月1本を増やすぐらいならなんとかなると思いました」 そこで月刊誌での連載を開始。ところが、さらに、週刊『ヤングマガジン』本誌でも連載をやらないかという提案を持ち掛けられます。話を聞いた時は、どう考えても無理だと思ったという三田さん。しかし、その無謀とも思える依頼を引き受けることになります。 「『クロカン』が終わってから描きますとか、ちょっと待ってと言うと、『ヤンマガ』の週刊誌で書くというチャンスはもう来ないだろうという考えがふっとよぎったんです。どうやって連載を2本描くかということは一旦置いておいて、とりあえず書きます! と言っちゃいました」 相当に過酷な選択ではあったものの、三田さんは当時を振り返ると"よくあの時連載を引き受けたなと褒めてあげたい"と笑顔で振り返ります。