『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』働くすべての人の疑問に迫る、2024年ベストセラー《著者・三宅香帆氏インタビュー》
2024年4月に発売され、刊行1週間で累計10万部を突破、12月現在も売れ続けている話題の書籍『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(三宅香帆/集英社)。本書は「あんなに好きだった読書が、働いていたらできなくなった」という著者自身の経験をもとに、読書史を近代以降の日本人の労働史と絡めて分析する1冊。その内容は、「働き方改革」が叫ばれる今もなお、気がつけば読書よりもスマホ閲覧を優先してしまう多くの「働く人々」の心に刺さる。
「書店員が選ぶ ノンフィクション大賞2024」にも選ばれた本書。著者・三宅香帆さんに、本書に登場した「教養」「ノイズ」という考え方や新書の魅力、働きながら趣味を楽しめる社会などについて、うかがいました。 (取材・文=立花もも)
「最低限必要な教養」が、差別的なニュアンスに変わってきた!?
――『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社)は、本に限らず「仕事と趣味が両立できない」という現代社会で多くの人が抱える苦しみに焦点をあてた本でした。「日本人の働き方史」としても、読み応えがありましたが、執筆したことで何か発見はありましたか?
三宅香帆さん(以下、三宅) 2012年以降、日本人の労働時間は減少していますし、私自身の体感としても、昔の人のほうが働いていたんじゃないかと思っていたんです。でも、統計をよく見てみると、労働時間が減少している原因に、非正規雇用の増加や、専業主婦が減ってフルタイムではない働き方をする女性が増えた、ということもあるんですよね。妻が家を守り夫ががむしゃらに働くという型が崩れて、誰もが働きに出るようになった今も、余暇を楽しむ余裕のない働き方が提唱されているのは、ちょっとちがうのではないか。新しい働き方の枠組みをつくるための議論がもっとなされてもいいのではないか、と改めて思いました。 ――がむしゃらに夫が働いていた時代も、自己啓発本やビジネス書が売れ、本は読まれていたというのが興味深かったです。 三宅 以前は、「これくらいは押さえておくべき」とされる教養が社会全体で共有されていたんですよね。たとえば小説だったら司馬遼太郎を読む、ドラマなら大河、コミュニケーション手段としての野球観戦など、選択肢も少ないから、誰もがなんとなく「よしとされるもの」「みんなが楽しめるもの」を知っていて、迷わずに済んだ。でも今は、パーソナライズされたおすすめが次々と提示され、個人の嗜好を磨くことが価値とされる時代。それによって「これくらいは押さえておくべき」という、みんながつながるための言葉が、差別的なニュアンスをもつようになってしまった気がするんです。「そんなことも知らないのか」「この程度の教養もないなんて」というように、知識の有無がヒエラルキーをつくってしまう。 ――とくにSNS上ではよく耳にする気がしますね……。 三宅 でも、まず「知る」ことができる環境にいるのは特権だ、という考え方もあります。環境なんて関係ない、本人の資質の問題だという人もいますが、同じ知識を得ていても、都会と田舎とでは活用できる機会が異なるのも確か。もちろん、環境の差などものともせず自力で道を切り開く人もいますが、どんなに平等に見える場所にも優劣を見出してしまう人がいる以上、ヒエラルキーが存在しないとは言いきれない。だからこそ本を読むことは、今の時代、いっそう必要とされているのではないかなと思います。表面上は「ない」ことにされているヒエラルキーのなかで、自分に必要な知識を身につけ、誰とも共有できないもやもやした気持ちに折り合いをつけつつ、個々人が納得できる生き方を模索していくために。 ――でも本は、自分にとって必要ではない情報も混ざっている。その「ノイズ」に耐えきれないから、本を読めなくなっているというのが、本書で語られた論のひとつでした。 三宅 コスパ・タイパを重視せざるを得ないのは、そもそも休む時間が少ないから。そうなるとやっぱり、働き方を考えなくてはいけないのではないか、という問いに戻ってくるわけです。どんなに忙しくても、昭和の時代には、野球を見ながらゴロゴロしているお父さんが大勢いた。なぜ今、それができなくなっているかというと、かわりに家のことを引き受けていたお母さんも、外で働いているからですよね。共働きが一般化した現代で、どうすれば人は余暇を優先させられるのか、を考えることが、ノイズを受けいれる余裕をもつことにもつながっていくと思うんです。 ――難しいなと思うのは、本って、読めば読むほどわからないこと=ノイズも増えていくじゃないですか。考え続けることに、終わりはない。それに耐えうる社会をどう再構築していけばいいのか、まだ手がかりが見つけきれない。 三宅 考えることが、もっと、エンターテインメントとして受け止められるといいのにな、と思います。私自身は、問いが増えていくことは、一種の喜びなんですよ。というのも、頭のなかが忙しくなって、よけいなことを考えずに済む。誰かと自分を比較して落ちこんだり、世の中の理不尽に打ちのめされたり、しんどいときにも頭のなかを埋めてくれる問いがあれば、なんとか生き延びることができる。心身が疲れているのに頭だけは暇、って状態は、感情が暴走しやすくもなりますしね。