「ホモ・ヒストリクスは年を数える」(番外編・下)~新元号「令和」決定~ 移動する文化の中心
西暦単独使用の問題
新元号決定の翌日である4月2日の朝日新聞に、「外務省が原則西暦使用の検討を始めた」という小さな記事が載った。4月3日の朝日新聞には、「2日に外務大臣が現状維持を表明した」との記事が載った。 日本政府が西暦だけに紀年表記を一本化することは、日本国憲法第20条の信教の自由に抵触するので不可能であろう。なぜなら西暦は、英語ではキリスト教紀年法(Christian Chronology)といい、宗教紀年であるからだ。このため、現在の元号法の下で、▽官公庁は元号を使用する▽事情により元号と西暦の併記は妨げない▽一般の西暦単独使用は自由である――という戦後70年かけて日本がつくりあげた解決方法が生まれたといえる。 西暦単独使用のもう一つの問題は、歴史的紀年認識の問題である。西暦はただ数字を羅列しただけなので、「何の問題もない便利な紀年法である」と多くの人は考えているようである。しかし、それは大きな誤解である。 今年が2019年というのは、イエス・キリストが生まれたとされる年から数えて2019年目であるという、キリスト教徒の考えが、私たちの歴史的紀年認識に大きな影響を与えることになるからである。 今から2019年前以前を紀元前(Before Christ=キリスト以前、略してB.C.)、それより後を紀元後(Anno Domini=主(イエス・キリスト)の時代、略してA.D.)とし、そこに大きな歴史的境界線があるとする紀年認識が、知らず知らずのうちに、私たちの歴史的思考を限定してしまうのだ。 私が複数の紀年法表記が紀年認識の基本型だと書いてきたのは、2つ、あるいは3つの紀年表記により、それぞれの表記法が比較できることとなり、ひいては、紀年認識を相対化できるからである。元号紀年法は、創世紀年法や、ヘジラ紀年法、仏滅紀年法等と並んで、われわれに紀年認識のバランスを与えてくれる紀年法でもある。 今回の新元号の発表に際しては、象徴としての天皇の国政関与に当たらないように、政府は、極力注意を払ってきた。それと同じように、西暦という名の宗教紀年であるキリスト紀年を単独使用することは、憲法の定める信教の自由に抵触するため、最大限の注意を払っているのだろう。