【光る君へ】ついに「彰子」が「定子」を超えた 重圧の日々に耐え、国母へ“覚醒”できた理由
一条天皇が定子とその後宮に惹かれた理由
『枕草子』に書かれている「香炉峰の雪」の有名なエピソードがある。ある雪の日、定子から「少納言よ、香炉峰の雪やいかならむ」と尋ねられた清少納言(ファーストサマーウイカ)は、唐の詩人、白居易の漢詩の一説に「香炉峰の雪は簾をかかげて看る」と書かれていたのをとっさに思い出し、御簾を上げさせたという話である。この場面は「光る君へ」の第16回「華の影」(4月21日放送)でも取り上げられた。 平安中期から後期には、漢文の教養は女性にとって必須ではなくなっていた。ところが、定子はこうして謎かけができるほど漢詩文に精通しており、その後宮の女房である清少納言も、それに対応できる漢文学の素養があった。定子の後宮は漢文が読める女房たちの集まりで、こうした教養を活かして天皇を支える場だったと考えられる。 そこは気が利いた洒落た会話が飛び交うサロンで、貴族たちも知識があって機転が利くような人物でないと、相手にされないほどだった。そんな後宮は、生真面目でオタクと呼べるほどの文学好きだった一条天皇にとっては、非常に刺激的だったのではないだろうか。 だからこそ、一条天皇は定子の入内後、彼女が兄である藤原伊周(三浦翔平)と弟の隆家(竜星涼)が不祥事を起こした際に彼らをかくまい、衝動的に出家するまで、ほかに女御を置かなかった。そのくらい定子もその後宮も、一条にとって特別なものだったのだろう。
定子の刺激的な後宮の存在感
一条天皇と定子が、この時代としては非常識な「純愛」を貫いたのも、定子が漢詩文をはじめとする教養が豊かだったことを抜きに考えられない。結果として定子は出家後も、周囲から白眼視されながら、一条との「純愛」路線を改めず、出家したまま敦康親王をふくむ3人の子を産み、彰子が入内して1年余りのち、24歳でこの世を去った。 しかし、機転が利いたやりとりが日常だった定子の刺激的な後宮は、定子の死後も、『枕草子』の宣伝力も相まって、強烈な存在感をたもち続けた。 一方、彰子の後宮は、父の道長が出自や育ちのよさを基準に女房たちを厳選し、定子の後宮との差別化を図ろうとしていたが、それが功を奏したとは思えなかった。要するに、彰子の後宮はお嬢様集団にすぎず、「香炉峰の雪」のエピソードのような当意即妙が期待できる場ではなかった。そもそも道長は、彰子に漢詩文を教えていなかった。 彰子は、話に伝えられる定子の後宮のような雰囲気には、とてもついていけないと思ったようだ。だから冒頭で述べたように、周囲に無難にすごすように指示し、自分自身もなにも主張せず、存在感を消してすごそうと決意したものと思われる。 しかし、12歳で入内した彰子も20歳になり、一条天皇と心を通わせるための道を模索しはじめる。志したのはやはり漢詩文だった。