伊藤比呂美「架空のシッポ」
詩人の伊藤比呂美さんによる『婦人公論』の連載「猫婆犬婆(ねこばばあ いぬばばあ)」。伊藤さんが熊本で犬2匹(クレイマー、チトー)、猫2匹(メイ、テイラー)と暮らす日常を綴ります。今回は「架空のシッポ」。伊藤さんが師事するズンバのアヤ先生は、介護職の経験もあるそう。明るく快活なアヤ先生の教えとは――(画=一ノ関圭) * * * * * * * ズンバ(とバレエ)の話、続けます。 カリフォルニアで、ズンバに、週に12回通っていた頃、当時の先生に「私は今、こんなに熱心にやっているが、やめるとしたら、どんなふうに?」と聞いたことがある。 「身体が老いていって、やがてどこか故障してエクササイズを休む、よくなって出てきて、またどこか故障する。そうやって次第次第に離れていくだろう」と先生は言った。それを何度も反芻しているあたしである。 父の最後の日々、父のおなかがぷっくりとふくらんでいたのだった。本人は「おれ、この頃メタボだから」と言って気にしていた。手足はやせているのにおなかだけ。かかりつけ医に相談すると、「動かないので筋肉が衰えて内臓を支えられなくなり、全体が下垂して、おなかがふくらんで見えるのだろう」と説明されて、あたしは納得したけど、「じゃおとうさん腹筋を鍛えようね」なんてことは言えなかったから、そのまま放置した。父は、全身の筋肉が衰え切っていたから、歩くときも、ただただ引きずるようにして歩いた。弱法師(よろぼうし)みたいだった。 さて、バレエの先生は妖精である。 それで、あたしたちにも妖精になれと指示を出す。あたしはこれまでに読んだバレエ漫画の知識を総動員して、妖精化にコレつとめているのだが、体重とあぶらみがじゃましてなかなか妖精になれないのだ。老婆と妖精は案外近いと思うんだが、なかなか。
一方、ズンバは生身である。 ズンバの先生は介護職の経験もある人で、老人や病人の歩き方をずっと見てきた。足を引きずって俯いて歩く人たちを見ていて、筋肉だ! と思ったそうだ。 このアヤ先生、カリフォルニアのズンバの先生たちとは大きな違いがある。カリフォルニアの先生たちは、というかアメリカ人は、他人の身体に対してネガティブなことはぜったいに言わない。でもアヤ先生は、ここが悪いあそこが悪いと指摘をする。「いやがる人が多いから、食いついてくる人にしか言わないんですけどね」と。そしてあたしはそこにがぶりと食いついたのだ。 専門はズンバだけに、アヤ先生、ノリがラテンで、明るくて快活であるが、大きい声で真剣に言うのである。 「老人や病人が歩くのを見てきたんですよ。背中をまるめてうなだれて足を引きずって歩くんですよ。それで転ぶ。痛める。歩けなくなる。正しく筋肉を使って歩くことを練習していけば、そんなことがなくなる。もう私はそこらを歩いてる人に誰彼かまわず話しかけたくなっちゃってる気分ですよ、ズンバやりませんかって」 あたしはアヤ先生に、右足の動きが悪いと言われている。毎日言われている。屈伸するとき、爪先と膝を同じ方向に向けないと、ねじれて膝を痛めるんだそうだ。 知ってます。これまでにも運動するたびにいろんな先生に言われてきた。バレエの先生にも、同じことをフランス風の妖精語で言われている。だから自分じゃやってるつもりだった。アヤ先生が「爪先と膝の向きをそろえてー」と叫んでいるときも、誰かが言われてるがあたしじゃないなと思っていたのだ。ところがどっこい。あるとき膝が痛くて力が入らず、それを申し立てたら、「ひろみさん、膝が内側に向くクセがあるから」と言われて特訓がはじまった。爪先と膝、そろえているつもりなのにクセは怖い、膝がどうしても内側に入り込む。だからつねに意識して、内側に入れないよう、まっすぐ保つ。 それだけのことがどれだけたいへんか。腹筋。ふとももの表の筋肉。ふとももの裏の筋肉。ぜんぶ動かす。筋肉がきゅーと鳴く。次の日は筋肉痛になる。でも数日経つと、なんというか、足のつかえが取れたように膝が楽になったのだった。