近年、一般公開が進んでいる「戦時中に飛び交っていた電文」が明らかにする「戦争の裏側」
零戦はいつ実戦投入されたのか
防衛庁防衛研究所の公刊戦史『戦史叢書』も、当事者の回想をもとに書かれているので同様の誤りを犯している。堀越氏が書いたものもふくめ、零戦は前線の要望に応えて「試作機のまま中国・漢口基地に派遣された」などと書かれたものも多い。 では、十二試艦戦の漢口進出は、じっさいにはいつ、誰によって、どのように行われたのか。 このことを解き明かす上で重要な情報が、防衛省防衛研究所所収の資料に丹念にあたると浮かび上がってくる。 まず、第十二航空隊の『支那事変 戦時日誌 飛行科の部』に、 〈(七月)二六(金)曇 零式艦上戦闘機六機横空ヨリ空輸(第三分隊長海軍大尉横山保着任)〉 とあるから、横山大尉の率いる第一陣6機の漢口到着は、7月26日で間違いなかろう。第一陣の一人として漢口基地に進出した藤原喜平二空曹の現存する「航空記録」には、7月23日、「零式艦戦」11号機で横須賀基地からから大村基地へ飛び、25日、同機で大村から上海、上海から九江基地へ。そして26日、九江から漢口に到着した、とあって、26日説を裏づける。 十二試艦戦が海軍に制式採用され、零式艦上戦闘機となったのは7月24日だから、23日の横空出発時はまだ十二試艦戦だったわけだが、航空記録の記載はこの日から「零式艦戦」となっている。いずれにせよ大村を発ったのは25日、漢口進出は26日だから、「試作機のまま進出させた」というのは言葉の綾としても誤りということになる。
零戦の実戦配備を示す記録
さらに「海軍航空本部支那事変日誌」の「発受せる重要の令達報告通報等」(以下、「電報綴」と表記)によると、第二陣となる零戦6機が、漢口に進出したのは8月12日のこと(7機で大村を出発したが1機は故障のためか上海に着陸、後日合流)。 「電報綴」によると、さらに8月23日、横須賀海軍航空隊の帆足工中尉が率いる第三次空輸の零戦4機が漢口基地に到着、十二空が受領した零戦は延べ17機となった。そして零戦は、9月13日、重慶上空で中華民国空軍のソ連製戦闘機27機を撃墜(日本側記録)、空戦による損失ゼロというデビュー戦を飾る。 ――たったこれだけのことを調べるのに、というより「戦時日誌」や「電報綴」を見ればよいと気づくまでに、何年もの時間を要してしまった。設計者が書いたものにも間違いがある。当事者が書いた本も鵜呑みにしてはいけないという、手本のような例である。 防衛省防衛研究所には、当時、中央と部隊の間を飛び交っていた膨大な電報の記録が残されている。今回はそのなかから、大戦末期、紫電改を主力に編成された第三四三海軍航空隊(三四三空)と、フィリピン戦についての電報をいくつか紹介しよう。