【光る君へ】偶然すぎる「まひろ」の出会いに突っ込みたくなるが… 謎多き人物を描く大河の宿命
紫式部の晩年のことはなにもわからない
まひろたちの前に刀伊が出現したタイミングは、『水戸黄門』などで善良な人が悪人に囲まれるタイミングと瓜二つでした。しかも、そこに双寿丸らが現れるのは助さん、格さんが助けにきたのとそっくり。九州の片田舎で事件が起きたタイミングで、よくぞここまで何人もの重要なキャラクターが集まったものだと、ある意味、感心しました。 しかし、こうまで偶然が重ねられると、「んなわけないだろ!」と突っ込みを入れたくなる、冷めた自分がいるのも事実です。同時に、歴史ドラマを制作する難しさを感じます。 さきほど、「この時期のまひろはオリジナル・キャラクターのようなもの」だといいました。それは、この時期の紫式部がなにをしていたか、まったくわかっていないからです。そもそも、いつ死んだのかもわかりません。死亡時期に関しては長和3年(1014)から長元4年(1031)まで、いろんな説が唱えられてきましたが、いずれも決め手に欠け、生没年ともに不詳のままです。 藤原実資(秋山竜次)の日記『小右記』には、紫式部と思われる女房がたびたび登場していて、刀伊の入寇の翌年の寛仁4年(1020)9月11日にも、「太后宮の女房」が登場します。国文学者の伊井春樹さんは「紫式部は『小右記』の最後に見える寛仁四年九月以降、病気か、何かの事情によるのか、皇太后宮のもとを去り、その後亡くなったのではないかと思う」と書いています(『紫式部の実像』朝日新聞出版)。 ただ、これも、伊井さん自身が「私の推論にすぎないが」と断りを入れているように、たしかな話ではありません。 結局、なにもわからないのですから、オリジナル・キャラクターと変わらず、彼女をどこにでも自由に出没させることができる、というわけです。そこは脚本家の腕の見せどころで、史実が不明である以上、「史実と異なる」などとケチをつけるのは野暮というものです。
大河ドラマの宿命と限界
大河ドラマはエンターテインメントですから、史実がわからない人の物語を、おもしろく、視聴者の共感を呼ぶように創作しても、問題ありません。まひろを媒介にして刀伊の入寇を描き、道長がまひろを心配する思いを通じて、都の人たちが受けた衝撃を描写する、というのは、なかなかの目のつけどころだと思います。 実際、大宰府は、夫の藤原宣孝(佐々木蔵之介)が赴任したことがある地なので、まひろが関心をいだいても不自然ではありません。 ただ、どこか釈然としない気持ちが残るのも否定できません。 『光る君へ』では道長とまひろは、幼いころ偶然遭ってから、たがいにずっと「思い人」です。しかも、まひろと宣孝のあいだに生まれたはずの賢子は、道長との不義の末に生まれた子です。 こうしたフィクションは、史実がわからない穴を埋めるために創作されたもので、ドラマを成立させるための必要悪のようなものだと思います。紫式部については、わからないことだらけなのですから、時の権力者との恋愛でもからめないと、ドラマは盛り上がりに欠けてしまうのでしょう。 しかし、視聴者の関心がそこに向きすぎると、道長がどうしてあれほどの栄華を誇ることができたのか、とか、『源氏物語』はどうして生まれ、宮廷社会でどんな役割を果たしたのか、といった歴史の把握の仕方を誤ることにもなりかねず、危険がともないます。 第46回の「刀伊の入寇」では、ロケによる戦闘場面などに迫力があって、ドラマによいアクセントをあたえていました。ただ、まひろが宮廷を去ったショックで出家した(と思えるように描かれている)道長と、道長との関係に行き詰って出奔したまひろの、それぞれの思いがそこに強く投影されると、これは歴史ドラマなのか、それともなんなのか、時に混乱させられます。 加えて、『水戸黄門』や三流の韓流ドラマ張りの偶然の連続。もちろん、その偶然は周到に伏線を張りめぐらせた結果で、その点では見事でもあるのですが、見ていてどこか引いてしまうのも事実です。 ここでなにか結論を出すつもりはありません。どのように乗り越えたらいいのか、よい案があるわけではありません。ただ、歴史ドラマとしての大河ドラマの宿命と限界が、そこにあるのはまちがいないと思っています。 香原斗志(かはら・とし) 音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。 デイリー新潮編集部
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