「人生の答えはいつも掴めないものやねん」自虐のどん底から引き上げてくれた「自分なくし」という言葉【坂口涼太郎エッセイ】
日常にこそきらめきを見出す。俳優・坂口涼太郎さんが、日々のあれこれを綴るエッセイ連載です。今回のエッセイは前回に続き「第一次エゴブーム終焉〈後編〉」です。どん底に落ちたお涼さん、「あきらめの第一人者」である、あの人に出会うの巻。 【写真】日常こそが舞台。自宅で「お涼」ルーティーンを撮り下ろし ある日、いつものごとくことばのなまはげと化したお涼が書店を練り歩きながら自分を回復させるためのことばを探していたとき、ふと棚を見ると、「さよなら私」ということばが表紙の本を発見し、なまはげの形相で鷲掴みにすれば、著者はみうらじゅんさんだった。 「マイブーム」や「ゆるキャラ」という言葉を生み、「タモリ倶楽部」や「見仏記」などでユーモア満載にお話しされる姿がぱっと思い浮かび、おもろそうアンテナがビビッと受信。なまはげの形相で自転車を立ち漕ぎして家に帰り、すぐさま読み始めれば「自分をなくせ。あきらめろ」と書いてあり、私はこれまでの愚行の根源を、繊維の奥まで染み込んだ汚れを、ようやく取り除けそうな思いだった。 みうらさんは「自分探し」ではなく「自分なくし」を提言していらっしゃり、そもそも自分があるから悩みや不満足や怒りが生まれるのだと、自分があるから面倒なことになるのだと、自分とは他人がつくるものであって、そもそも自分が自分だと決めつけているだけで、自分なんてないのだから、いまいる場所のおもろさや不思議さをそのままおもしろがり、受け入れ、相手が喜ぶことファーストで行動すれば、すべてが円滑に進んでいくのだということを説いてくださっているのだと私は感じた。 この連載で私があきらめ活動「らめ活」をしていくことを宣言したのも、みうらさんがこのご本で「あきらめる」という言葉はもともと仏教の言葉で「物事の真理を明らかにすること」だと教えてくださったことが発端であり、それまでの私は自分のことをあきらめられていなかったのだということに気づいた。 自分を過信していて、驕りがあり、こんな場所では自分は活きない、自分にふさわしい場所はここではない、どうしてこんなに燃えている自分に誰も気づいてくれないのだと不満に思い、ふてくされ、もっと自分にふさわしい場所があると、いまいる場所ではないまだ見ぬどこかを見ようとしすぎて、いまいる場所のことをないがしろにして、あらぬ理想を探し求めていた。 それはまさに“いま”を感じることができておらず、他力本願であり、自分のことを過大評価して、慢心しているほかなくて、そのフラストレーションを発散するために「悲ロ活4DX」を連日開催していたのも、まさにあきらめの悪いつまらない“自分”があるからで、「自分なくし」をして、あきらめてあきらかにしていれば、そんなプレイをする必要はなかった。 今回の現場は自分をそれなりの置き物として、となりにいる置き物さんと「今日も置き物だねー。じゃあ今日は台湾の博物館にあった翡翠でできた白菜の気分で置かれてみよーっと」と言いながら、この状況を笑いに変えて楽しく過ごしておくべきだった。 演出部さんに「抑えて控えて」と言われていたのも、きっと自分のエゴが表出して、無意識のうちに目立とうとしたり、誰かに「私はここにいます!」と気づいてほしくてやり過ぎていたことがノイズでしかなかったのだと思う。 この場が円滑に進むように、今回はそういう役回りなのだとあきらめて、朗らかにおおらかに、みんなで楽しくこの2ヵ月を過ごしておくべきだった。
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