出生と自己責任論に絶望……「親ガチャ」問題を哲学者と臨床心理士が語る
肯定してくれる他者が必要だ
東畑 アウグスティヌスの書物を読むと友達の話がたくさん出てくるんですよ。彼は愛の人だと思います。人生の中に色々と愛する人がいる。中でも、若い頃にいい友達がいたんだけど、そいつが死んでしまったのを嘆き、それもまたマニ教からキリスト教へと回心するプロセスになっていきます。 戸谷 『告白』ですね。 東畑 そうそう。彼の思考で面白いのは、すごくいい友人に恵まれているにもかかわらず、結局友達はまやかしで、最終的には神と一対一で向き合うのが大事だ、みたいな考えに収斂していくところ。僕はこれが本質だなと思います。キリスト教というのは、横のつながり以前に、まずは縦のつながりなんですね。これはかなり厳しい思想です。対して、現代のメンタルヘルスケアは、まずは横のつながりという方向になっているように思います。自分を肯定してくれる友達がいる、その上で、自己と向き合うフェーズがやってくるという順序ですね。 戸谷 東畑さんの心理療法論であり、友人論である『ふつうの相談』(金剛出版)を読んだときにハッとさせられたのが、「そんなの普通だよ」という言葉でした。一方においては、普通はこうだから、みたいな形で排除する力になるけれど、もう一方においては、そんなことで苦しむのは普通だよ、という包括する力になるんだと。 東畑 臨床的に言えば、友達がいないときに自分と向き合うと、どうしても悪いことばかり考えるからよくないと思うんです。親ガチャの問題に戻ると、やっぱり「わかるよ」っていってくれる存在が必要なんです。戸谷さんの言葉を使うなら、「連帯できる他者」になるのでしょうか。 戸谷 僕は哲学カフェという対話型ワークショップをずっとやっているんです。半分遊びみたいなものなんですけど、愛とか正義とか友情とか、そういったテーマについて見ず知らずの人が色々と喋る。専門用語は禁止して、自分の言葉で話してもらうようにしています。そうすると参加者自身が、「自分ってこういう考え方をしているんだ」と気づくんですね。部屋に閉じこもって自分と向かい合っても、多分この認識にはならないんじゃないかな。 東畑 カウンセリングで一番重要なのは、誰かが一緒に考えてくれるっていうことだと思うんです。戸谷さんが本の中で自己責任論への批判をしたのは、要するに自分に責任があるとして、一人では責任を取り切れないことがあるからだと思うんですよね。 責任は誰のものか? 戸谷 そうなんですよ! 哲学の文脈だと責任は個人とか集団とか、あくまで単一の主体に帰属するものなんですけど、実際にはもっと重なりあっているんじゃないか。責任を取ることはそんなに単純ではない。 東畑 つまり責任を取るのがいかに大変かということですね。実際には、責任の分担ってある種の幻想ではあるんです。本当の最後の最後は、つまり司法の場になったら、自分の選択には自分で責任を取らなければいけないことになります。それは事実です。でも責任の分担という幻想があることが重要だと思うんです。それが人を孤独から守ります。切迫した時間を緩めてくれます。そういうつながりの中にあってはじめて、僕らは逆に責任を取れるのだと思うんですね。 戸谷 はい。ただ「親ガチャ」の問題の難しいのは、自分で「生まれてくる」ことを選択できないところにあると思います。「子ガチャ」とか「家電ガチャ」なんて言葉も登場しましたが、それらはあくまで主体的な選択が可能ですよね。 東畑 子供を産むかどうかを親は選べるし、家電を買うかどうかも選択可能ですからね。だけど、この世に生まれるかどうかは選べない、ということですか。 戸谷 そうです。だからこそ自己責任論だけで終わらせてはいけない、と強く思っています。 東畑 責任ということがいかに複雑なものであるかを考えさせられました。 戸谷 本書がこの重要性をもっと多くの人に考えてもらうきっかけになればうれしいです。 *** 東畑開人 臨床心理士。専門は、臨床心理学・精神分析・医療人類学。『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』『ふつうの相談』など著書多数。 戸谷洋志 哲学者。関西外国語大学准教授。専門は、哲学・倫理学。著書に『ハンス・ヨナス 未来への責任』『友情を哲学する』などがある。 [文]新潮社 協力:新潮社 新潮社 波 Book Bang編集部 新潮社
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