出生と自己責任論に絶望……「親ガチャ」問題を哲学者と臨床心理士が語る
「自分の人生を引き受ける」とは?
東畑 「責任の問題」についてはハイデガーを引用していましたね。 戸谷 彼は『存在と時間』の中で、「無の問題」というのを提唱します。これは、私が行った行為は、確かに環境によって決定されているかもしれない。だけれど、その環境に生まれてきたのが私であったことには何も根拠がない、という主張です。少し難しいのですが、「行為の責任」はあるけれど、「存在の責任」はない、というわけです。 東畑 「存在の責任」って、どのようなものですか? 戸谷 自分の人生を、自分のものとして理解するとか、引き受ける、といったことを意味します。例えば、第二章では、自分の人生を引き受けられない、責任を取れない人の例として「無敵の人」を取り上げました。 東畑 「無敵の人」というのは、社会的に失うものがなく、他人を巻き込み犯罪を起こしてしまう人、とされていますね。本の中では、秋葉原通り魔事件の加藤死刑囚が取り上げられます。 戸谷 彼は裁判で「自分がこういう人格になってしまったのは、すべて親の責任だ。自分が何をしても、自分には責任がないんだ」と語っています。自暴自棄になって自分の行動の責任を自分で取れなくなってしまっている。これを反対側から考えると、「責任の主体である」ことは、ある種自分に配慮する気持ちや自尊心に繋がってくるのではないかと僕は思っていて、本書ではその重要性を強調しています。 東畑 責任があるからこそ、自分に配慮できるようになるということでしょうか。この箇所を読んでいて思ったのは、「悪いことをしたな」と思うためには、他者が必要であるということです。孤立しているときには、悪いことをしたと思うことは難しい。自分しか自分を肯定する人がいないときに、自分まで自分を否定してしまうことは致命的なことですよね。そういう意味で、壊れない関係性にある他者がいるからこそ、その関係を傷つけてしまった自分について振り返ることができると言えます。 戸谷 つまり、自分が傷つけてしまった相手ときちんとした関係性があるから、相手を傷つけたことをかえって受け入れられる。ひいては自分の行為の責任を自分で取ることができる、ということですか。 東畑 それが難しいんですけどね。 戸谷 それは考えたことがない発想で、すごく面白いです。加藤死刑囚は「もし私の話を聞いてくれる人がいたら、こんなふうにはならなかったかもしれない」ということを書いているんです。誰か関係性を築ける他者との出会いがあったら、彼も違った道をたどれたのかもしれないなとは思います。 東畑 他者を求める気持ちがあったということなんですね。最近読んだアウグスティヌスの話を思い出しました。彼はローマカトリックの司教であり、哲学者なんですが、若い頃に信仰していたマニ教を批判するんですね。すごくざっくり説明すると、マニ教の教えでは、世界には光と闇があって、悪い奴が闇に潜んでいて、悪いことはその存在によって起こっている――そんな考え方を持っている宗教です。だから自分が悪いことをしても、その責任は自分に帰属しないんですね。 戸谷 なるほど。 東畑 アウグスティヌスは同じ文脈で占星術を批判しているんです、つまり星ガチャです。本書で言及されている決定論と似ていませんか? 戸谷 確かに。この世界で起こる自然現象はすべてあらかじめ決定されている、というのが決定論的思想です。本書では、若者たちが親ガチャという決定論的な考え方によって自分の人生に絶望を抱いてしまう……というところから、いかに自己を肯定する方へ抜け出すかを論じました。 東畑 アウグスティヌスは、マニ教を批判して、「神は絶対的な善であって、悪を作らない。だからこの悪は、その人間自身が選んだものだ」と考えます。いわゆる自由意志論ですね。すべては善なのだけど、善の中でも低い善を選ぶのが人間の自由意志であり、そこに悪が顕現するのだと。これは悪の行為を主体性の結果として見ることです。占星術的価値観、つまり星ガチャに反対して、自分の悪なる部分を認め、自分の人生として引き受ける、これが戸谷さんのいう自己肯定感とつながるなと感じたんです。