「まだ終わっていない」60年目の水俣病 被害申請の診断書も書いてもらえず
患者・支援団体「分断の歴史」を乗り越えて
永野さんは水俣病の60年を振り返って、原因企業のチッソ(現JNC)や国による「患者分断」「支援団体分断」の歴史でもあるという。 1956年5月に水俣病の公式確認がされた後、59年7月に熊本大研究班が「有機水銀説」を発表。チッソは同12月、自らの責任は認めないまま水俣病患者や遺族らの一部と「見舞金契約」を結び、少額の見舞金を払う代わりに「将来水俣病の原因が工場排水だと分かっても新たな補償要求はしない」との条項(73年の第一次訴訟で無効判断)を契約に盛り込んだ。 見舞金の支給対象となった水俣病患者家庭互助会の患者たちは、68年の政府による水俣病公害認定まで沈黙を強いられたうえ、公害認定に伴う補償を巡っては裁判による決着を主張する人たちと、厚生省の水俣病補償処理委員会に一任する人たちに分裂する。さらに71年には、それまで水俣病と認定されていなかった患者たちが環境庁(当時)の採決で新たに認定を受け、謝罪と補償を求めて独自にチッソとの交渉に乗り出し「自主交渉派」と呼ばれた。 73年の水俣病一次訴訟の原告勝訴に続くチッソとの補償協定締結後、新たに認定を申請する患者は2000人超に上ったものの、認定を受けられなかった人たちは95年の政府最終解決策、さらに09年の水俣病救済特別措置法成立まで長い闘いを強いられた。特措法の被害申請を巡っても、未認定で折り合って一時金を受け取るか、あくまで認定を目指して闘うかで、「地域が分断された」という。 「でも」と永野さんは言葉を続け、「分断されたいくつもの支援団体が60年を機に妥協しながらも今、つながりあっているんです。分断の歴史は水俣の悪い教訓でもあると同時に、それぞれが独自に立ってきた、個として自分でしっかり考えて立ってきた。そのうえで連携していくことでさらに水俣という地域が豊かなものになってきたのだと思っています」と話した。 この日の報告会は講師2人のキャラクターからか、にぎやかで明るい笑いが絶えなかった。毎年水俣をゼミ合宿で訪れるという男子大学生は突然マイクを向けられこう言った。「なぜ毎年水俣に行くのか、その答えはまだ明確な言葉にはできませんが、患者さんが涙ながらに語る姿に接すると、自分が生まれる前の問題だけれども自分自身は無関係ではない、という思いを年を追うごとに強くしています」。