指導者として第二の野球人生を歩み始めたイチローが目指すのはメジャー監督?GM?新しい価値観を創造できるのか
1930年に引退したジョージ・シスラーは、ミシガン大時代のコーチで、プロ入りした時の監督でもあるブランチ・リッキーに請われ、セントルイス・カージナルスの特別スカウトとなった。リッキーは当時、同球団で今のゼネラルマネージャーがするような仕事をしていた。 1942年のシーズン終了後、リッキーがブルックリン・ドジャースの社長兼ゼネラルマネージャーに転身すると、シスラーもまたブルックリンへ。ほどなく、他の数人のスカウトとともに密かに託されたのが、黒人選手の発掘だった。 シスラーらはニグロリーグを回り、数名をリストアップ。その中にジャッキー・ロビンソンの名前があり、リッキーは面接を経て、1945年秋に彼との契約を決断した。 最大の懸念は、ロビンソンが激しい差別に耐えられるかどうかだった。陸軍にいるとき、バスに乗ったところ、黒人は後ろに座れと言われて反発したことがあった。屈すれば、あとに続く選手の道も閉ざされることになる。 1年間のマイナー生活を経て、いよいよ1947年春、メジャー昇格のときがやってきた。マイナー以上の反発が予想され、チーム内にさえ不穏な感情が渦巻く。心配したリッキーは、腹心ともいえるシスラーをロビンソンの元へ送り、その意志の強さを今一度観察してくれ、と頼んだとされる。 その答えがNOなら、その後の歴史も変わったかもしれないが、いずれにしてもそのエピソードからは、シスラーへの信頼が透ける。 その後シスラーはロビンソンを指導し、1948年のシーズンが終わると、ティーバッティングを通して彼の技術を伝えたという。1949年、ロビンソンが打率.342で首位打者を獲得し、MVPに選ばれた影にシスラーの存在があったというのは知られた話だ。 さて先日、2004年に84年間破られなかったそのシスラーの年間最多安打記録を更新したイチローもまた、第二の野球人生を歩み始めた。 4月30日に会長付特別補佐に就任、マリナーズと3Aタコマで外野守備、走塁、打撃を指導するという。翌5月1日には、早速マリナーズで打撃投手を務めた。引退した3月21日以来、初めてフィールドに姿を見せたという点ではインパクトが大きかったが、光景そのものに違和感はない。当然だ。つい1ヶ月ちょっと前まで、そこにいたのである。 だがその2日後、タコマにも現れると、少し空気が違った。さすがにまだ、若い選手が気軽に話しかける、という感じではない。そこでも打撃投手を務めると、実際にイチローの球を打った23歳のジョニー・スレイターは、どこか恐縮していた。 「自分の中では、ビデオゲームの中に存在していた選手だから」 平静を装ってはいたが、内心では「まさか・・・」という思いだったそうだ。