何度も火災に見舞われていた家康の隠居城
11月26日(日)放送の『どうする家康』第45回「二人のプリンス」では、成長した豊臣秀頼(とよとみひでより/作間龍斗)が豊臣氏再興に勢いをつけていく様子が描かれた。家康の三男で将軍の徳川秀忠(とくがわひでただ/森崎ウィン)が事態を憂慮するなか、徳川家康(とくがわいえやす/松本潤)は極力、合戦を避ける姿勢を変えなかったが、豊臣方の攻勢が強まっていく。 豊臣方の挑発で一触即発の事態に発展 1611(慶長16)年、亡き太閤・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の遺児である秀頼が19歳となった。その凛々しく成長した姿に、豊臣氏の居城である大坂城では、徳川家康より天下を返される日を待望する声が高まっていた。 一方、駿府城に居城を移し、江戸とも大坂とも距離を置きながら天下の政を差配していた大御所・徳川家康は、豊臣方の不穏な動きに目を光らせていた。 そんななか、二条城で家康と対面すべく、秀頼は大坂城から姿を現した。あくまで慇懃(いんぎん)な姿勢で家康に接し、上座に座らせることで、秀頼は徳川に対して低姿勢を貫く。このことは、世間から秀頼の声望をより高め、逆に家康を無礼とする評価につながった。秀頼にかつての太閤の姿を重ね合わせた家康は、ますます警戒を強めるようになる。 しかし一方で、自らに迫る老いに、弱気になる気持ちもあった。家康が戦のない世を築き上げることに自信を失いかける傍らで、家康の三男で、現在、将軍を務める秀忠も、秀頼の勢いに狼狽する姿を隠そうともしなかった。 徳川家中の戸惑いをよそに、秀頼は豊臣の威光を復活させる動きをますます活発化させた。 そんな豊臣再興の事業のひとつ、京大仏とともに披露する梵鐘(ぼんしょう)の銘に、家康を挑発する文言が刻まれたことで、事態は急変する。家康は、豊臣方との合戦が避けられないもの、と覚悟を決めるのだった。 家臣の不祥事がもたらしたキリシタン禁教 家康が駿府を隠居場所として定めたのは、1606(慶長11)年のことという(『当代記』『家忠日記増補』)。同年10月には約20日間にわたって同地に逗留し、隠居城を築くための細かな指示を出している(『慶長見聞録案紙』『当代記』)。 翌1607(慶長12)年閏4月8日、家康の二男・結城秀康(ゆうきひでやす)が病没。家康は同24日に殉死を禁ずる旨の御内書を送っている(「藤垣神社文書」)。同年7月には駿府城(静岡県静岡市)がほぼ完成。同3日に家康は移り、ここを本拠とした(『当代記』)。この時に豊臣秀頼から祝儀の刀と金が送られている。 ところが、同年12月22日に駿府城の物置から出火し、城の多くが焼失した(『徳川実紀』)。これを受け、24日に家康は二の丸にあった本多正純(ほんだまさずみ)の屋敷に移って年を越した(『当代記』)。 翌1608(慶長13)年2月14日、駿府城本丸の上棟式が行なわれ、まもなく家康は移った(『慶長見聞録案紙』)。 しかし、翌1609(慶長14)年6月1日に駿府城本丸から再び出火。度重なる失火に怒った家康は、出火原因となった女中2人を探し出して火刑に処し、別の2人を流罪とした(『当代記』)。 家康は出火原因を煙草の不始末と見て、同年7月に禁煙令を出すに至った。「耕作売買まで禁じ、罪を犯すと財産没収」という厳しい内容だったが、禁煙が守られることはなかったという。そのためか、翌1610(慶長15)年10月9日にも台所から出火があった(『御湯殿上日記』)。大きいものから小さいものまで含めると、駿府城は9回ほどの火事に見舞われたという。 なお、当時はキリシタンによる放火という噂もあったが、家康自身がこれを否定していたようだ。 1611(慶長16)年3月、家康は6年ぶりに上洛。同28日に豊臣秀頼と二条城(京都府京都市)で会見した。秀頼の上洛は伏見から大坂城に移った1599(慶長4)年以降で初めてのこととなる。 この時、秀頼の供として、織田有楽斎(おだうらくさい)、片桐且元(かたぎりかつもと)、大野修理などが付き従った。秀頼は「御成の間」に座ることを譲った上で、家康に拝謁するという格好を望んでとったらしい(『当代記』)。この対面は、秀頼が家康に臣従したものと見られたようだ(『慶長見聞録案紙』)。この後、秀頼は豊国社を参詣して大仏を目にしている。その日のうちに大坂に帰ったという(『当代記』)。なお、対面した家康は「秀頼は賢い人物だ」と評したらしい(『明良洪範』)。 1612(慶長17)年3月21日、家康はキリスト教の布教を禁止した(『駿府記』)。その背景には、キリシタン大名の有馬晴信(ありまはるのぶ)と、家康の最側近でもある本多正純の家臣・岡本大八(おかもとだいはち)の贈収賄事件があった。晴信、大八ともにキリシタンだったことから禁止令が発布されることになるわけだが、この時はまだ、後世に見られるほど厳しい禁教ではなかった。 1614(慶長19)年7月26日、家康は方広寺(ほうこうじ/京都府京都市)大仏の開眼供養を延期するよう豊臣方に申し送った(『本光国師日記』)。理由は鐘銘に不吉な文字が認められたこと。問題となったのは、「国家安康」「君臣豊楽」の八文字だった(『駿府記』『武徳編年集成』)。 もともと豊臣秀吉が創建した方広寺は1596(文禄5)年の地震で倒壊していたため、家康が秀頼に勧める形で1612(慶長17)年より再建が進められていた。 家康は京都五山の高僧を集め、鐘銘の善悪を問うたところ、いずれも「不当」と答えたという。家康自身が「御腹立ち」(『駿府記』)だったことから、この見解は大御所・家康におもねったものとも考えられる。 一方で、家康が豊臣方に対して懸念を示していたのは鐘銘ではなく、大坂に多くの牢人たちを召し抱え、軍備増強を図っていたことだったとする見方もある。
小野 雅彦