A級戦犯はなぜ太平洋に散骨されたのか 75年前の極秘文書発見 アメリカ軍は「超国家主義」の復活を恐れていた
1945年12月~49年10月、米軍は日本国内で唯一のBC級戦犯裁判を横浜市で開き、51人が処刑された。「参謀研究」の埋葬数は、文書作成の48年7月21日時点の数字とみられる。 占領期、米軍は横浜市中区山手に仮設墓地を設け、日本への空襲などの際に戦死した米兵を埋葬していた。その一角に横浜裁判で処刑された戦犯が埋葬されていた事実が初めて判明した。 米軍は1948年8月13日に決定した戦犯の海洋散骨方針で「既に埋葬している遺体はできるだけ速やかに掘り起こし、火葬して散骨することが望ましい」と命じている。 埋葬の遺体を含め、処刑された51人は横浜市で火葬された。だがその後、実際に海に散骨されたかどうかは米軍の記録が現時点で見つかっていない。日本側は火葬場に骨や遺灰の一部が混ざった状態で残っていたとして、個人の特定はできないまま、1953年に遺族に分けて返還した。 ▽フィリピンの墓地から消えた遺体の行方
BC級戦犯を巡っては、米軍の「参謀研究」に「フィリピンのカンルーバン墓地に戦犯65人の遺体を埋葬している」との記述もある。 米軍は横浜のほか、フィリピン・マニラでもBC級戦犯裁判を開廷。「マレーの虎」の異名を持つ山下奉文陸軍大将や、「バターン死の行進」の責任を問われた本間雅晴中将ら69人が処刑された。その大半がカンルーバン墓地に一時埋葬されたが、遺体は行方知れずとなっている。 広島市立大広島平和研究所の永井均教授(日本近現代史)によると、カンルーバン墓地には旧日本軍の捕虜も埋葬されており、1948年12月下旬~49年1月初旬、約5千体の遺体が長崎県佐世保市に送還された。米軍は同墓地を撤去する計画だったため、永井教授は同じ時期に戦犯の遺骨が散骨された可能性があると指摘し、次のように語った。 「米軍は記録を細部まで残し、上官に報告していた。今後、BC級戦犯の遺骨を散骨した記録が見つかる可能性はある」