【ドキュメンタリー】58年 無罪の先に-袴田事件と再審法- 世紀を超えた冤罪事件が問いかけるもの#2
静岡県浜松市。ここに年老いた2人の姉弟が暮らしている。袴田ひで子(91)と巖(88)だ。巖は半世紀近く拘置所にいたことで心身に異常をきたす拘禁症を患っていて、釈放から10年あまり経った今なお意味不明な言動が続く。ひで子は弟に代わって無罪を勝ち取ると決め、現在は法律の壁を打ち破ろうと動き出している。(敬称略・#1から続く) 【画像】巖の姉・ひで子は東京拘置所に通い続けた
弟の生命の危機に姉は…
ここで動いたのは姉・ひで子だ。 「巖は死刑囚で、いつ殺されるかわからない。これじゃ、かなわん」との思いから巖を助け出す方法を模索。法的なことは弁護士に任せ、自身にできることは差し入れしかない、と面会に行くことを決めたが、ここから姉の長く孤独な闘いが始まった。 1970年以降、再審の末に無罪となる死刑囚が出始め、巖の弁護団は1981年、裁判のやり直しを求め静岡地裁に再審を請求。 当時、静岡地裁の裁判官として再審請求審を担当した熊田俊博は「凶器とされたくり小刀は刃の長さが十数センチ。あのような物で被害者4人の体が1人ずつ、複数回、10回近く刺されている。そんなことが果たしてできるのだろうか。犯行時の着衣が味噌樽から発見されたという経過も含めて、他の疑問点も含めて再審開始ではないかという印象を持っていた」と巖に対して無罪の心証を抱いていた。 とはいえ、当時は審理の初期段階で、熊田は自らの心証を他の裁判官に打ち明ける前に退官。 すると、再審請求から13年後の1994年、静岡地裁は「袴田は有罪」として請求を棄却。 熊田の無罪という心証は封印された。
大きな力を与えた“証拠開示”
こうした中、2007年になってある男が口を開く。 1968年に一審の静岡地裁が死刑判決を言い渡した際の裁判官のひとり、熊本典道である。 熊本は「なんで20日間、無茶苦茶な調べをするんだろう、と。ということは、確たる証拠がないからだろうと僕は僕なりに考えた。最終的な合議の前に、判決要旨350ページくらいの無罪判決を書いていた。でも、最後に負けて。そうなると高裁で(死刑判決を)破棄してくれることを願うしかなかった」と、無罪の心証を抱きながらも他2人の裁判官との多数決に敗れ、死刑の判決文を書いたと告白。 これを受け、「弟を救えるかもしれない」と、ひで子は何度も面会に向かう。 しかし、巖はひで子に会うことすら拒むようになった。 諦めなければならないのか…。 だが、天はひで子を見捨てることはなかった。 2010年9月、検察が過去の裁判で提出していなかった証拠の一部を初めて開示。 ここには、“ある調書”が含まれていた。 それは、味噌樽の中から見つかったズボンを製造する会社関係者の供述だ。 それによれば、ズボンのタグに記された「B」の文字は、サイズではなく色を意味するという。 前出の福地は「なぜ、裁判官も我々も間違えたのかというと、検察官が『これはB体だ』と証拠を出した。(B色だと)知っていながら、それをやった。こんなの許されないと思いません?」と憤る。 後に、ズボンは肥満体よりサイズの小さい“Y体”だったことがわかっている。 2011年には取り調べの録音テープが新たに開示された。 そこには、捜査員が「袴田、認めろ。認めないのかどっちだ。申し訳ないと思っているのか。被害者に対して申し訳ないという気持ちを持っているのか?ん?袴田、どうなんだ?お前さんがやったことに間違いがないか。何で謝罪する気持ちにならんだ?」と詰め寄る様子が記録されていて、巖が「すみません、小便行きたいですけどね」と言っても、別の捜査員が「便器持って来て。ここでやらせればいいから」と人権など無視された取り調べだったことがわかる。