【証言・北方領土】歯舞群島 多楽島・元島民 河田弘登志さん(3)
根室の空襲の最中、弟を探しに行った父と祖父
――家族と音信不通になった。 ええ、家族と音信不通ですよ。不安です。私は健康だったんですけど、弟は2年生くらいから体が弱くて、根室の病院に結構入院していた。3年生になってから、まだ入院して、島に戻ったのは、終戦のちょうど1カ月前。7月の14、15日、根室、空襲受けたんです。町の中心部80%ぐらい焼けてしまった。そのときに病院から焼け出されて、穂香(ほにおい)というところまでかなりあるんですけど、そこまで逃げたんですね。 その空襲の真っ最中に、うちの父親と祖父と2人で探しに出たんです。そのとき親に言われたことは今でも覚えてる。島には私、5年生、それから来年学校へ行くという妹と2人だけで残されたんですね。そして、父親が風呂敷に貯金通帳と印鑑を入れて、私の腰に縛って「いつまでもあると思うな、親と金」という言葉だけ残して出た。空襲の最中だから、生きて帰るか死んで帰るかわかんないわけですよね。そして、幸いに弟を見つけることができて、翌日帰ってきました。 ――空襲を受けているのが島から見えましたか。 見えた、見えた。したって、煙がもうもう上がってるの見えるんだもの。天気がいい日で、私も見てましたよ。 ――米軍機が上空を通っているのも見ましたか。 米軍機は見ないですけど、煙上がってんのは見えましたね、焼けて。親たちはすぐピンときますよね、根室が焼けてたら。そこに入院してるわけですし。私はその間、親戚のうちに妹と2人で行っていて。多楽から、大体50キロちょっとになるのかな、納沙布から45キロぐらいですからね、直線で。
潜水艦に乗って「島に帰りたい」と願った
――では、戦後、根室に移ってきたときにも、弟の体調はすぐれなかったということですか。 それでも、病院行くわけにもいかない、病院のないところに行ったんですから。おじさんたちは島から出てきて、ちょうど漁を終わって帰る番屋っていうところに入ったんで、そこに私たちも行ったわけです。やっぱり病気上がりだから少しは弱い、体調が悪くなったりすると、寂しくなるのね、夕方になると特に。私は兄だし、気が張ってたっていうのかね。何とか面倒見なきゃなんねえと思ってるから、寂しくなると海岸に出て、沖の方見てたもんですよ。何とかして、潜水艦みたいのに乗って、潜って行けないものかなと、よく考えてましたね。 ――島に帰りたかった。 帰りたいと、親のところに。今のように、行かれなくなる、何十年も行けないなんてこと考えてないから、親が向こうにいるわけだから、行きたいと思った。何とかして帰れないもんかな、と思ったですよ。 ――弟と一緒におじさんの船で根室に来たのは9月ですか。 10月に入っていたかもしれませんね、昭和20年の。