【証言・北方領土】歯舞群島 多楽島・元島民 河田弘登志さん(3)
家族を待つ間、番屋の次は馬小屋暮らし
――家族とはどこで再会できたんですか。 そのときは、番屋からも出たんですよ。番屋は翌年になると、漁に行きますでしょ、持ち主が。と、出なきゃなんないでしょう。それで、次に行ったところが馬小屋ですよ、入るところがないから。馬がいるんですよ、一緒に。そこに我々がいるんですよ。そこで寝起きしたり、食べたりしたわけです。 ――それは根室ですか。 根室じゃなくて、別海の走古丹っていうとこ。たまたま、その馬小屋も、うちのおじさんたちの知ってる人のだったんですけど、そういうところで生活したんです。 ――弟と2人でそこで暮らしていたのですか。 ええ。やがて、おじさんたちがうちを建てて、親たちが来たときにはそこに移ってましたけど。 ――おじさんたちは、家族が函館に着いたことを知ったのでしょうか。 そのころも電話連絡も何もないんですけど、かなり日数かかって来てますから、知ったんでしょうね。とりあえずは真っ直ぐ、根室に入ってきますから。そして、「根室まで船で迎えに来て」って言ってましたね。
「ドロドロ」に汚れて樺太から着いた家族との再会
――家族と再会、どう感じましたか。 いや、何とも言いようがなかったね。誰も事故はなかったんですけど。世の中に着の身着のまま裸一貫という言葉があるでしょう。私は「あれ以上の『着の身着のまま裸一貫』って見たこともないし、これからも見ることはないでしょ」って言ってんです。汚いですよ。着るものもろくに持たないで、荷物少しだけ持って出てるわけでしょう。そして、それだけ日数かかってるでしょう、何カ月もうちを出てから。 樺太に収容されたとき、食べるものも飲むものも不自由でしょ。だから、その行程の中で、かなり犠牲になってる人いるんですって。老人なんかが多いって言ってましたね。聞くと、船で亡くなった者は水葬にする。うちの母親、平成13年に88歳で亡くなったんですけど、晩年になってから「1つ悔やんでる」って言ってました。それは樺太で、亡くなった人を、凍った土を溝のように掘って、そこに転がした。そして、一握りの土もかけてやることができなかった、と。亡くなった人はそういうふうにされたんですね。たくさんたまるとトラックに積んでどっかへ持ってったらしいって。樺太に収容されても、食べるものも飲み物も、水をもらうにも行列だって言ってましたからね。もう相当難儀して函館まで渡ったわけですよ。だから、そういう着の身着のままのところへもってきて、函館に入って今度何をされてきたか。 当時、シラミっていうのがものすごいはやってた。「私、シラミおりません」なんて言ったら、「ばかでないか」と言われるぐらいにいた。それでDDTっていう粉、我々もやったことあるんですけど、ぶわーっと頭からかけるでしょう。着替えもできない、そのまんまの格好。ドロドロの格好して来たですよ。ですから、何ぼおじさんのうちでも、そのまま「どうぞお入り」というような状態でなかったですね。雪の降りそうなころだったですけど、外で水をくんで洗い流して、着るものがなければ借りてきて、ようやく中へ入れた。そういう姿ですよ。 ですから、3.11の東日本大震災ありましたね。あのときを例に出して、ある大臣に話したことあるんです。あれもまたすごい犠牲者も出たし、大変だったですけど、当時、強制送還されたりした人たちは、そういう状態だったんですよ、と。誰も援助してくれない、食べるものも援助してくれない、自分で調達しなきゃならない、着るものも恵んでくれない、入る家もない。震災があると、今だったら手際よくプレハブ建てるとか、食料支援するとか、着るものを集める。あの当時、終戦後で、何も遭わなかった人でも不自由してた時代ですから。要は、全部自分たちで調達しなきゃなんなかった。