【証言・北方領土】歯舞群島 多楽島・元島民 河田弘登志さん(3)
営林署にもらった丸太で建てた隙間だらけの小屋生活で再出発
そういう生活をして、私もおじさんとことと分かれて、親たちと一緒になったんです。大体、番屋を転々として歩いたんですけども、漁時期になると来るわけですから、持ち主が。そうすると、行くところがないんですよ。家を建てるとかって、材料がない。それで、別海のちょっと遠いところなんですけど行って。営林署に頼んで、柱になるような丸太を何本か、何十本か払い下げしてもらって、穴を掘って柱を立てて、掘っ立て小屋です。板っていっても、今の板から見たら半分くらいの厚さ、ペラッペラの。そういうものをずっと張り付けて、屋根も何とか正屋根でふいて。中に入れる戸もなければ、当時は出来合いの窓をただはめ込むだけですよね。隙間だらけ、どっからでも風入ってくる。それでもいいんですけれども、下に敷く板がなかった。土の上にむしろ敷いただけ。そういうところで生活したんです。 冬になると、もう周りから凍ってくるんですよ。そういうとこで生活して、食べるものも不自由してる、着るものもなかなか不自由してる。寝てたって星見えるようなうちになってるから、風はビュービュー入ってくるし、冬になると雪が入ってくるとか。それでも我々死ななかったですよね。だから、「人間って、いろんな環境に順応するもんですよね」ってよく言うんですけど。 ――小屋の生活はどのぐらい続きましたか。 そういう生活は大体、昭和28年までいましたから、8年間。おじさんのうちにちょっといたときだけですよ。あと、来てすぐ番屋。馬小屋にいたり、番屋にいたりと繰り返して。そして、そこの掘っ立て小屋に8年間くらいいた。根が漁師でしょ。漁師って言ったって、自前の船ないでしょう。どっかからオンボロの船を見つけてきて、網とか漁具ったって、何にもないでしょう、みんな置いてきてるから。どっから、やっぱり、それなりのものを少し見つけてきて、漁に出るでしょう。既存の漁業者いるでしょう。その間へ入っていくでしょう。獲れるもんじゃないです、なかなか。 ――条件が全然よくない。 それでも、昭和28年になってから、私の母親たちも、何とか弟が根室の学校へ入れたもんですから、先に根室に来てた。そのうちに父親も冬に出てくる。私も冬になって、何かやる仕事がないかなと、冬だけ過ごす仕事でもないかなと思って出てきて、ろくな仕事もないけど、アルバイトして、それ以後、根室に住むようになったんですよ。ですけど、来ても入るところがない、うちがないんですから。それで、住宅の2階、屋根裏に、家族10人になりましたけど、そこで生活したもんですよ、しばらくの間。 ――ほかの家の2階部分で。 2階に。何とかかんとか小さなうちを見つけて、2間くらいの部屋に10人家族で入ったのが、その後ですから、昭和30年…。島を出てから10年してからですね、ようやくそういう生活しましたですよ。 ――多楽島に残れたら、そういうことにはならなかったのかもしれない。 ならなかった、ならなかった。まだ10年だったら、うち残ってる。建て替えたばっかりのうちはあるしね。昆布漁やってるし。あるいはまた違う漁業やってたかもしれないし。